お手軽文学散歩　第２１話「ドストエフスキー「罪と罰」について（２１）」

第２１話　ドストエフスキー「罪と罰」について（２１）

スヴィドーリガイロフが木造の宿屋で悪夢の夜を過ごしていた頃、ラスコーリニコフも一晩中雨と泥にまみれてどことも知れぬ場所を彷徨っていました。夕暮れの六時ごろ、疲労と悪天候と肉体的衰弱、そして自分自身との闘争で彼の顔は醜悪にまで変わってしまいました。彼は決心を固めて母と妹の住むアパートに向かいます。ラズミーヒンの世話で旅館から移っていたのです。妹はいませんでした。

母は雑誌に載ったラスコーリニコフの論文を読んでいました。もう三度も読んで、将来息子は学者になるに違いない、息子は自分などがわかるはずもない偉大な思想を持ち大きな事業に参加しているのだ、そのために人から狂人と思われるような苦悩に悩んでいるのだと思っています。

彼は、母親に言います。
「母さん、どんなことが起こっても、僕のことでどんなことを聞いても、今までのように僕を愛してくださいますか？僕は、いつも母さんを愛していたことを、母さんにはっきり知ってもらうために来たのです。僕は、たとえ母さんが不幸になるようなことがあっても、やはりあなたの息子は我が身以上にあなたを愛していることを、知っていただきたいのです。」
「どうしたの？きっと、おまえには何か大きな悲しみがあって、そのために苦しんでいるんだねえ。私はいつもそれが気になって夜も寝られないんだよ。おまえの妹も一晩中うなされておまえのことばかり口走っていたよ。ロージャ、一体どこに行くの？どこか遠いところにでも行くのかえ？」
「さようなら、お母さん、もう出かけなければ。どうしても済まさなければならない用事があるのです。……….」
《　そして二人は抱き合って泣いた。彼女はもう驚かなかったし、うるさくも尋ねなかった。彼女はもうずっと以前から、息子の身に何か恐ろしいことが起こっていることを知っていた。そして今、彼にとって恐るべき瞬間が到来したのだと悟った。　》

ラスコーリニコフが下宿に帰ると、妹のドーニャがいました。彼女は一日中ソーニャの部屋で一緒に彼を待っていたのに、なかなか現れないので、ひとり彼の部屋に来て待つことにしていたのです。彼は、母と会ってきたと言います。
「母さんのところに行ったの？じゃあ、兄さんは、母さんに話したの？思い切って話したの？」
「いや、話さなかった………でも、母さんはいろいろ悟ったよ。夜おまえがうなされていると聞いたよ。もう大体わかっていると思うよ。寄ったのはまずかったかもしれない。僕は下劣な人間だよ、ドーニャ。」
「下劣な人間？だって苦しみを受けようとしてるじゃない！ほんとに、行くのね？」
「行くよ。今すぐ。僕はこの恥辱を逃れるために、川へ身を投げようとしたんだよ、ドーニャ、だが橋の上に立って水を見たときに、考えたんだ。今まで自分を強い人間と考えていたのじゃないか、今恥辱を恐れてどうするって。……….これが誇りというものだろうね。ドーニャ？」
「誇りだわ。ロージャ」
「水を見ておじけついただけなんて思わないだろうね？」
彼は、立ち上がって出かけようとします。
「もう　遅い。行かなくちゃ。僕は今自分を渡しにいくんだよ。だが何のために自分を渡しにいくのか、僕にはわからない。」
大粒の涙がドーニャの頬を伝います。
「だって、兄さんは苦しみを受けに行くことで、もう罪の半分を償ってるじゃありませんか？」
「罪？どんな罪だ？（注１）僕があの汚らわしい、害毒を流すしらみを殺したことか？殺したら四十の罪を赦されるような、貧乏人の生き血を吸っていた、誰の役にもたたぬあの金貸し婆あを殺したことか？これを罪というのか？僕はそんなことは考えちゃいない、それを償おうなんて思っちゃいない。どうしてみんな寄ってたかって、《罪だ、罪だ》と小突くんだ！　今　始めて自分の小心の卑劣さがはっきりとわかった、今、この無用の恥辱を受けに行こうと決意した今！　僕が決意したのは、自分の卑劣さと無能のためだ、それにさらにそのほうが得だからだ。あのポルフィーリーの奴が………すすめたように！」
「兄さん、何てことを言うの？だって、あんたは血を流したじゃありませんか？」
「誰でも流す血だよ。世の中にいつでも流れているし、滝のように流れてきた血だよ。……..
僕は人々のために善行をしようとしたんだ。ひとつのこの愚劣の代わりに、僕は数百、いや数百万の善行をするはずだったんだ。いや、愚劣とさえ言えないよ。ただの手違いさ。だって、この思想自体は決してそれほど愚劣なものじゃないからね。失敗すれば何でも愚劣に見えるさ。この愚劣な行為で、僕は独立不羈の立場を勝ち取り、そして第一歩を踏み出し、手段を獲得する、そうなれば、比較にならないくらいの利益で埋め合わせができるはずだった。ところが僕は、その第一歩にも耐えられなかった。何故なら、僕が卑怯者だからだ。これがすべての原因だ。」
「でも、それは違うわ、全然違うわ！」
「ああ、形が違うって言うんだね。それほど美学的にいい形じゃないって言うんだね。それが、僕には全くわからないのだ。どうして人々を爆弾で吹っ飛ばしたり、攻め滅ぼしたりするほうが、より尊敬すべき形なんだろう？（注２）……….このことを今ほどはっきりと意識したことはなかった。だから、今までのいつよりも今、僕は自分の罪が理解できないんだ。絶対に、一度も、僕は今ほど強く、そして確信に満ちたことはない！」

ラスコーリニコフは、ドーニャに母を守ってくれと頼みます。
「僕は母さんを堪えられそうもない不安の中に残して来たんだ。母さんは死ぬか、気が狂ってしまうよ。一緒にいてやってくれ。僕はたとえ殺人犯でも、終生、男らしい誠実な人間になるように努めるよ。」
彼は、ほこりをかぶった本の中から、小さな肖像を取り出します。彼のかつての許婚、熱病で死んだ下宿の娘の水彩画でした。「彼女にも話したよ。彼女も同意しなかったよ。彼女がもういなくてよかったよ。」
帰っていく妹を見ながら、彼はつぶやきます。
『いったいどうしてあの人たちは俺をこんなに愛してくれるのだろう。俺にはそんな価値はないのに！ああ、俺がひとりぼっちで、誰もおれを愛してくれず、俺も決して誰も愛さなかったら、こんなことは一切起こらなかったろう！（注３）』

ラスコーリニコフはソーニャの部屋に入っていきます。ソーニャも、一日中ドーニャと一緒に彼を待っていたのです。ドーニャは、彼がソーニャのところに懺悔に来たと聞いて、『兄はひとりではない、人間が必要になったときに、彼女の中に人間を求めた、彼女なら運命が兄を送るところへ、どこまでも追っていくだろう』という安心を得たのです。
ソーニャは、本当に彼が自殺してしまうのではないかと考えて、恐ろしさのあまりいても立ってもいられませんでした。「シベリア行きか、頭に弾丸か、」と言ったスヴィドーリガイロフの言葉が彼女の頭に何度も何度もこだまします。『あの人は、虚栄心が強く、傲慢で、自尊心が強い、そして神を信じていない。一体、小心と死の恐怖だけで、あの人を生きさせることができるだろうか？』
ラスコーリニコフを見て、喜びの叫びが彼女の胸にほとばしります。しかし、不意に彼女の顔は蒼ざめます。
「君の十字架をもらいに来たのだよ。」
ソーニャは黙って箱から糸杉の十字架と銅の十字架を取り出します。　自分に十字を切って、彼にも十字を切ってやって、彼に糸杉の十字架をかけてやります。
「これが十字架を背負うということのシンボルか、まるでこれまでの僕が苦しみ足りなかったとでもいうみたいだ！糸杉の十字架、民衆の十字架か。銅の十字架、リザヴェータがこれをかけていたのか。…………僕は、同じようなふたつの十字架を、あのとき、老婆の胸の上に捨ててきた。本当は、あれを今つければいいんだ。」
「十字をお切りになって！　せめて一度でもいいからお祈りになって！」
「ああ、いいとも、何度でも君の気が済むだけ祈るよ、素直な気持で祈るよ。」
頭に緑のショールをかぶって一緒に行こうとするソーニャを制して、ラスコーリニコフは、「僕ひとりで行く」と言います。

『いったい何のために、俺はあの女のところに行ったのだ？俺は、あの女を愛しているとでもいうのか？まさか、そんなばかな！あの女から十字架をもらわなければならなかったのか？　俺もずいぶん落ちたものだ！　いや、違う、俺にはあの女の涙が必要だったのだ。せめて何かにすがって、時をかせぐことが、人間を見ることが、必要だったのだ！そんな俺があんなに自分に望みをかけたり、よくもあんなうぬぼれを持てたものだ。俺は乞食だ、ゴミだ、俺は卑怯者だ、卑怯者だ！』
彼はセンナヤ広場（いかがわしい居酒屋や露天商が立ち並び、貧乏人や酔払いや浮浪者でごったがえしている広場、リザヴェータに商人が７時に来るようにと言った場所）へ入っていきます。不意にソーニャの言葉を思い出します。「十字路に立ち、ひざまずいて、あなたが汚した大地に接吻しなさい、それから世界中の人々に対して、四方に向かってお辞儀をして、大声で、私が殺しました！と言うのです。」

《彼は、広場の中央にひざまずき、地面に頭をすりつけ、愉悦と幸福感に満ち溢れて、汚れた地面に接吻した。彼は立ち上がると、もう一度お辞儀をした。》
彼を見た群集は、「酔っ払っていやがる。」とか、「こいつはエルサレムに行くんだとさ、祖国に別れの挨拶か！」とか、「貴族だか平民だかわからねえ奴だ！」とか、囃し立ててどっと笑います。
彼の口から飛び出すはずの「私は人殺しです」という言葉は凍りついてしまったようです。彼は、警察署に向かって歩き出します。
《歩いている途中、一つの幻（注４）がちらと彼の前に浮かんだ。彼はそれに驚かなかった。彼はそうなるのが当然であることを予感していた。地面に頭をすりつけたとき、五十メートルほど離れたところにソーニャの姿を見た。彼女は広場にある木造のバラックのひとつの影に隠れていた。すると、彼女は彼の痛ましい行進にずうっと付いて来たわけだ！ラスコーリニコフは、その瞬間、はっきりと、ソーニャがもう永遠に彼のそばを離れないで、たとえ地の果てであろうと、運命が彼を導くところへ、どこまでもついてきてくれることを感じ、そして悟った。彼は胸がじーんとした………だが、彼はもう宿命の場所まで来ていた………》

彼は三階まで上らなければならない。足の力がなくなって、膝ががくがくしています。彼は、姿勢を正し、人間らしく入っていこうとします。『でも、何のために？何故？』彼は、火薬中尉（副署長）を尋ねようとします。『ひょっとしたら、まだ言わなくてもいいかもしれない。』と思ったとき、彼の前に、火薬中尉が立っていました。『これが運命というものだ』
副署長はラスコーリニコフが自分を尋ねてきたことに驚きます。あの警官のザミョートフに会いにきたのかと思って、彼は転任してここにはもういないと言います。また、一時ラスコーリニコフに疑惑を抱いていたことがあると言って詫びます。そして、自分もラスコーリニコフと同じく知識人だといわんばかりに一方的に色々の文学談義を始めます。　やがてこんなことを言います。　「最近は、自殺が実に多くなりましたな！　全くあなたには想像もできんほどですよ。皆最後の金を使い果たして、この世におさらばというわけですわ。小娘や子供から、年寄りまでも、＿＿つい今朝も、こちらに来て間もないとかいう紳士が自殺したと報告がありましたよ。おい、なんと言ったかな、あの紳士は？ほら、ペテルブルグ区で拳銃自殺した………」
「スヴィドーリガイロフです。」
誰かがこう言うのを聞いて、ラスコーリニコフは、ぎくっとします。何かが上から落ちてきて、圧しつけられたような気がします。
「あなたはまた顔色が悪くなったようですね。」
「ええ、もう失礼します。すみませんでした。僕はただザミョートフ君に…..」
「わかってます。わかってます。とても愉快でしたよ。」

《　ラスコーリニコフは部屋を出た。彼は階段を下りきって、庭へ出た。するとそこに死人のような真っ蒼な顔をしたソーニャが、何ともいえない険しい目でじいっと彼を見つめていた。ソーニャの顔には何か痛々しい、苦悩に疲れ果てたような、絶望の表情が浮かんだ。醜い、放心したような薄笑いがラスコーリニコフの唇に押し出された。彼はしばらく立っていたが、自嘲の笑いを残すと、また警察署へ戻っていった。
「ああ、あなたですか？忘れ物でも？……..どうなさいました？」
「あれは僕が…….」
「水を飲みなさい」
「あれは僕があの時金貸しの老婆と義妹のリザヴェータを斧で殺して、盗んだのです。」
イリヤ・ペトローヴィッチ（副署長）は、あっと口を開けた。四方から人々が駆け集まって来た。　》

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注１：

ここで使われている「罪」は、ロシア語のプレストｳプレーニエ（ｃｒｉｍｅ、犯罪）です。
聖書や神に対する罪（ｓｉｎ）という場合はグレフを使うというのが定説です。
ソーニャが「私は罪の女」という時の「罪」は、グレフから派生した「グレシニッツア」ソーニャに対してラスコーリニコフが言った「罪の意識だ」（第１８話）の「罪」もグレフです。
「ロシア語のプレストｳプレーニエは、神や良心とは何の関わりもない語で、もとになった動詞の語義そのまま、文字どおり、人間の定めた掟(法律や社会的規範)を『踰える』行為なのである」(江川卓著『謎とき『罪と罰』』[新潮社]20ページ)」
しかし、井桁貞義氏は、こうした読み取りは間違っていて、どちらも聖書に関わる言葉だと言っています。
「この「プレストｳプレーニエ」は聖書にもたびたび使われている単語で、一口に言えば律法、決まり、禁止事項の境界線を乗り越えて違犯すること、その行為をさす言葉と言ってよいでしょう。聖書のコンテクストでは、この行為によって「罪」の自覚が生まれる。ロシア語の「グレフ」が新約聖書において「罪」を言い表す基本的な言葉「ハマルティア」に対応するとすれば、「ペレストｳプレーニエ」は「罪過」などを意味する「パラプトーマ」や「違犯」の感覚の強い「パラバシス」に対応しているでしょう。ついでに律法はロシア語では「ザコーン」ですが、こちらは世俗の意味では「法律」をも指し得る言葉です。」
（出典：ドストエフスキイと聖書～『罪と罰』/聖と俗の重なるところ）

私は、「罪」をグレフの意味で使用する人（ソーニャ）は聖書と神に対する罪を意識し、プレストｳプレーニエを使用する人（ラスコーリニコフ）は聖書を意識していないか、神の否定を意識していると考えます。ラスコーリニコフは明らかに意識的に神に反抗して、この言葉（プレストｳプレーニエ）を使っているのです。

現代のセンナヤ広場