お手軽文学散歩　第１７話「ドストエフスキー「罪と罰」について（１７）」

第１７話　ドストエフスキー「罪と罰」について（１７）

スヴィドーリガイロフとは、第６話（母親からの手紙）に書いたように、ラスコーリニコフの妹ドーニャに横恋慕した男です。ルージンとドーニャが結婚すると聞いてなんとかしようとあせっていた丁度そのとき、妻のマルファーが死んだために、急いでドーニャを追ってペテルブルグにやって来たのです。

スヴィドーリガイロフは、ラスコ－リニコフにドーニャと会わせてくれるよう頼みます。そして、ルージンとの結婚は破談にしたほうがドーニャのためになると言って、ドーニャに一万ルーブルを贈与すると約束するのです。ラスコーリニコフは、拒否します。ラスコーリニコフにとって、スヴィドーリガイロフは妹を悪に誘う蛇のような存在です。　ラスコーリニコフは、第５話に書いた「暴行されてふらふらと歩いていた少女」の後を追う紳士に「おい、スヴィドーリガイロフ」と呼びかけています。妹のみならず不幸な少女達を陵辱し、迫害する中年の淫乱男の代名詞なのです。
スヴィドーリガイロフには、妻殺し、下男殺し、少女強姦の噂があります。もっとも、噂を流したのは、ルージンですから、その意図も、その真偽も不明です。しかし、真相は不明ながら、噂の持つイメージそのものの現実感と存在感があります。
スヴィドーリガイロフは五十才。七年前に五才年上のマルファーと結婚。二人の子かマルファーの連れ子か不明ですが、子供（複数）がいます。

ラスコーリニコフが何も言わない前に、スヴィドーリガイロフは、ドーニャとの関係について弁解を始めます。
「自分の家で寄る辺もない娘を追いまわし、忌まわしい申し出でその娘を辱めたことですか？でも、あの時、アメリカかスイスへ駆落ちしようと申し出たとき、私はこの上もない敬虔な感情をもっていたかもしれないし、ふたりの幸福を築こうと考えていたに違いないのですよ。なにしろ、理性ってものは、情欲に奉仕するものなんですからね。(注１)　私のほうがかえって犠牲者かもしれませんよ。」
そういいながら、しばらく他の話をした後、こんなことも言います。
「ドーニャさんへの自分の愛を弁解して、自分のほうが犠牲者だと言いましたね。ところが今の私は、愛情なんてものは何も感じていないのです。まるきり感じていないので。自分でも不思議なくらいです。だって、あの時は、私はなにか感じていたことは事実なのですから。」
「無為と淫蕩の為にね？」ラスコーリニコフが言うと、「たしかに私は無為と淫蕩な男です。それにしても妹さんは実に立派な方ですね。私のようなものでさえ、少しは心を動かされずにいられなかったのですよ。」
そして、ルージンとの結婚は破談にしたほうがよい。そのために一万ルーブルを提供するから、ドーニャと会わせてくれというのでした。そして、こう言い添えます。「私だって、何も悪事ばかりしなければならん義理はありませんからね。」（注２）
自分は、子供達を伯母にあずけて、「航海」に出ようと思っているし、知人の紹介で、若い娘と結婚することになっている。だから決してドーニャへの野心は持っていないと強調するのです。そして、こんなことまで言います。
「もし私が死んで、遺言によって妹さんにお金を残したとしたら、それでも妹さんは、拒否するでしょうか？」
ラスコーリニコフ「大いに考えられますね。」
別れ際に、スヴィドーリガイロフは言います。
「大事なことを言い忘れました。マルファー（スヴィドーリガイロフの妻）の遺言状に三千ルーブルを妹さんに送ると書いてあったとお伝え下さい。これは絶対に本当ですよ。死ぬ一週間前に私の見ている前で、作成したのです。」

この会話の中に、こんなシーンがあります。
「マルファーさんは、あなたが殺したそうじゃありませんか？」
「この件については、私の良心にはいささかも疚しいことはありません。検死の結果、ぶどう酒を一瓶たいらげた後、水浴したために起こった脳溢血と証明されたんですよ。」
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…………………………
「マルファーが訪ねてくるんですよ。………..もう三度来ましたよ。最初に見たのは、葬式の当日、二度目は一昨日旅の途中、夜明けの駅で、三度目は二時間ほど前、宿の部屋でです。三度とも現（うつつ）です。来て一分ほど話して戸口から出て行くんです。」
マルファーの亡霊とスヴィドーリガイロフとの長い会話を聞いたラスコーリニコフは、自分でも思いがけなく、「何故だかあなたには何かそうしたことがあるに違いないって、そんな気がしましたよ。」と言います。スヴィドーリガイロフもびっくりして言います。「私達には何か共通したところがあるって、私はさっき言いませんでしたか？」
スヴィドーリガイロフは、また別の亡霊の話をします。
「六年前、下男のフィリップが死んで、葬式もすんだ直後、私はうっかり『フィリップ、パイプを持って来い』と怒鳴ったんですよ。すると奴が入ってきて、パイプのある棚のほうに歩いていくじゃありませんか。『これは、奴が仕返しに来たんだ。』実は、奴が死ぬ前に大喧嘩したからです。」
スヴィドーリガイロフは、亡霊について、こう語ります。
「世間の人は、お前は病気だと言います。亡霊が病気の時にだけ現れるということは、認めます。しかし、だからといって、亡霊が存在しないことの証明にはなりませんよ。亡霊は、＿＿＿＿いわば他の世界の小さな断片、他の世界の要素。だから健康なひとには無論見えませんよ。ところがちょっとでも病気になると、つまり地上の秩序がちょっとでも破壊されると、直ちに他の世界が現れ始める。病気が重くなるにつれて、他の世界との接触が大きくなり、このようにして、人間が完全に死ぬと、そのまますぐに他の世界に移る。もし、来世の生活を信じていれば、この考えも信じられるわけです。」
ラスコーリニコフは、「僕は来世の生活なんて信じません。」
スヴィドーリガイロフが、突然言います。「我々は常に永遠というものを、理解できない観念、何か途方もなく大きなものとして、考えています。何故どうしても大きなものでなればならないのか？そうしたものの代わりに、ちっぽけなひとつの部屋を考えてみたらどうでしょう？田舎の風呂場みたいな煤だらけの小さな部屋で、どこを見ても蜘蛛ばかり、これが永遠だとしたら。（注３）」
『この男は気違いだ。』とラスコーリニコフはつぶやきます。しかし、スヴィドーリガイロフは、「こんな文学談義ができる私達は、同じ畑のイチゴですね。」と言います。

スヴィドーリガイロフは謎の人物です。ラスコーリニコフが言うように、そして自分自身も認めているように、無為で淫蕩な男です。

Ｊ．Ｍ．マリというイギリスのドストエフスキー研究家は、その著「ドストエフスキー」の中で、こう書いています。
≪スヴィドーリガイロフこそ、この書物の真の主人公である。彼はまず、なにか人間以下、または、人間以上である忌まわしい存在の噂によって、登場してくる。ラスコーリニコフの妹の無垢な心を辱め、また幼い少女を陵辱した男として。単なる噂かもしれないが、こんな噂がつきまとう力を持っている男である。噂とは、彼の内なる実体の象徴にほかならない。≫
≪スヴィドーリガイロフは、悪しき意志の化身である。彼は年をとったラスコーリニコフであり、しかもわが意志は万物を獲得すべしとの決意の、年をとっても鈍らなかった男。彼はおのれの意志によって、人生に打ち克とうするのだ。彼は善悪の彼岸を越えていった。彼はおのれの意志が万能であることを意志した。スヴィドーリガイロフは、現実性以上に現実であるとともに、ラスコーリニコフの夢である。≫

スヴィドーリガイロフとラスコーリニコフは、いわば表裏の存在です。一種の分身です。
私の考えをあえて言わせてもらえれば、ラスコーリニコフは、「汝殺すなかれ」という神の摂理の持つ意味に問いかける観念であり、スヴィドーリガイロフは、「汝姦淫するなかれ」という神の摂理の意味に問いかける肉欲と情念の化身です。殺人という悪のなかに正義の側面があるように、悪の宿る源泉としての肉の世界に人間の自由意志がある。ふたりの世界にも矛盾しあいながら、反響しあう共通の何かがありそうです。だから、ふたりは、「同じ畑のイチゴ」なのです。
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スヴィドーリガイロフと別れたラスコーリニコフは、ラズミーヒンと一緒に母親と妹のところに行きます。そこにルージンも来ます。三人は挨拶もしません。
やがて、マルファーの死の話になります。
ルージンが正確な情報だといって、こんな話をします。
「スヴィドーリガイロフは、悪事に身を持ち崩した連中の中でも最もたちの悪い男です。マルファーは、八年前にあの男の借金を肩代わりして救ってやりましたが、もうひとつのことでもあの男に尽くしてやったのです。もう間違いなくシベリア送りになるような、残忍で、怪奇な殺人事件というような事件をもみ消してやったのです。スヴィドーリガイロフは、レスリッヒという女と親密な関係になっていたのです。?でつんぼの十四才の姪が一緒に住んでいたんですが、この少女をレスリッヒがとても憎んでいて、些細なことでも叱りつけ、残酷に打ち据えたのです。ある日その少女が首をつったのです。自殺ということで、一応片がついたのですが、その少女はスヴィドーリガイロフに陵辱を受けていたと密告があったのです。結局はマルファーの金と尽力で、密告はなかったということでケリがついたのです。もっとも密告したのも誰にも信用されないあばずれのドイツ女でしたから、あやしいものでしたがね。それと六年前、まだ農奴制の時代にフィリップという下男が責め殺された事件がありましたね。」
するとドーニャが口をいれます。
「私が聞いたのは、まるで違いますわ。自殺だったという話でしたわ。」
「たしかに自殺でした。でも、それもスヴィドーリガイロフのたえまない虐待と懲罰のためなのです。それにしても、ドーニャさん、急に彼の弁護にまわられたようですね。確かにあの男は女性に関しては、実に巧妙な誘惑者でしたね。」
その時、ラスコーリニコフがだしぬけに、スヴィドーリガイロフがペテルブルグにやって来たこと、ドーニャの為に三千ルーブルを残してくれたマルファーの遺言状があることを話します。
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ルージンは、自分の願いが実行されない状況では、つまりラスコーリニコフのいる前では、重要ないくつかの問題について、話したくても話せないと言って席を立とうとします。ドーニャはきっぱりと言います。
「あなた方お二人に仲直りしてもらいたい。もしあなた方が仲直りをして下さらなかったら、私はどちらかを選ばなければなりませんのよ。あなたにつけば兄と縁を切らねばならないし、兄につけばあなたと別れなければならないし。」
ルージンは言います。
「将来の生活の伴侶たる夫に対する愛は、兄に対する愛にまさらなければなりません。」
ふたりの会話は、勿論どんどん決裂の方向に向かって進んでいきます。
ルージンは、「三千ルーブルの遺産の話を聞いてから、私に対する話し振りが変りましたね。私はあなた方のためにお金まで使わせられたのですよ。」となじります。彼の使ったお金とはトランクの送料らしいのですが、母親は車掌が無料にしてくれたと暴露します。
ルージンは、最後に一言だけ言わせてくれと、ドーニャに向かってかみつくように言い放ちます。
「お母さんはすっかり忘れていなさるようだが、私が貴女を貰う決心をしたのは、貴女の名誉を傷つけるあの噂がたてられたあの後ですよ。あなたに対する世評を無視して、あなたの名誉を回復してやったのだから、当然の権利として、報酬を期待していいはずだったし、感謝を要求したってかまわなかったんだ。しかし、今になって思うと、世間の声を無視してかかったことは、全くもって軽率でした。」
「こいつ、頭がどうかしているのか！」ラズミーヒンは、椅子をけって今にも殴りかかろうとします。
「あなたは、下劣な心のねじけた人です。出て行って下さい！」ドーニャが叫びます。

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「わたしが一番悪かったのよ。」とドーニャが言い、「神様が救ってくださったんだよ。」と母親が言います。
《一同は喜び合い、五分後には笑い声さえ聞かれた。ラズミーヒンは有頂天になっていた。今こそ彼には一生を彼女達にささげて、彼女達に仕える権利があるのだ。》

スヴィドーリガイロフが一万ルーブルの提供を申し出たことラスコーリニコフが話すと、ドーニャは、今にも震え上がりそうになって、ほとんど囁くように独り言を言います。
「あの男は何か恐ろしいことをたくらんでいるんだわ。」
ラズミーヒンは、急に、マルファーの遺産三千ルーブルの内から千ルーブル出してもらって、自分が伯父から貰うことになっている千ルーブルとあわせて、二千ルーブルで出版社をやろうと言い出します。ラズミーヒンは三ヶ国語に堪能だし、ラスコーリニコフも翻訳を手伝えば、必ず成功するというのです。そして、近くに親子三人暮らすのに手頃なアパートがあるので、そこをすぐ借りてあげると言います。

ところがラスコーリニコフは、突然帽子を取って出て行こうとします。それを見て、ドーニャは信じられないように驚きの目で見つめます。
ラスコーリニコフが言います。「なんだい。皆、まるで僕の弔いか永遠の別れみたいな顔をして。もっとも、これが最後の別れになるかもしれないね。」
「どこへ行くの？　ロージャ？」
「うん、ちょっと、どうしても行かなけりゃならないところがあるんだ。……….母さん、ドーニャ、しばらくの間、僕らは別れて暮らしたほうがいいんだ。いずれ来られるようになったら、僕はまた来ます。………母さんやお前のことは忘れません。愛しています。……….僕をそっとしておいて下さい。僕の身に何がおころうと、たとえだめになってしまおうと、僕は一人でいたいのです。僕を忘れてください。僕のことは探さないで下さい。用のあるときは自分で来るか、あなた方を呼びます。あるいは、すっかり元どおりになるかもしれない。……….だが、今は、……僕を愛しているなら、かまわないで下さい。でないと僕はあなた方を憎みます。僕にはそれがわかるのです。………さようなら。」
哀れな母は、悲痛な声で哀願します。「ロージャ、ロージャ、仲直りしておくれ。昔どおりにしようよ！」
「兄さん！お母さんになんてことをするの！」　ドーニャは怒りに燃える目で兄をにらみながら、声を殺して叫びます。
ラズミーヒンが追ってきます。
ラスコーリニコフは言います。
「母と妹のところへ戻って一緒にいてやってくれ。明日も、いつまでも。……………これが最後だ。絶対に聞くな。君に答える何もない。……僕を見捨てろ。だがあの二人は、….見捨てないでくれ。」
　《廊下は暗かった。彼らはランプのそばに立っていた。一分間ほど黙って顔を見つめ合っていた。ラズミーヒンは生涯この瞬間を忘れなかった。ぎらぎら燃えたひたむきなラスコーリニコフの視線が、刻一刻鋭さを増し、彼の心と意識に突き刺さってくるようだった。不意にラズミーヒンはぎくっとした。何か異様なものが彼らの間を通り抜けたようだ。……..ある考えが暗示のように、滑りぬけた。恐ろしい、醜悪なあるもの。そして二人はとっさにそれを悟った。………..ラズミーヒンは死人のように真っ蒼になった。
「やっとわかったか？」　不意にラスコーリニコフは病的に顔をひきゆがめて言った。》

ラズミーヒンは、母親と妹にロージャは病気だからと繰り返し説明し、いい医者を見つけると約束します。その晩から、ラズミーヒンは、彼女らの息子とも兄ともなったのです。

ラスコーリニコフは、その足でソーニャの住んでいる運河沿いのアパートに向かいます。

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注１：	理性ってものは、情欲に奉仕するものなんですからね。肉欲に生きるスヴィドーリガイロフの真情の吐露であることはいうまでもありませんが、女性こそ理性ではなく情欲に従って行動する存在だ、つまり、ドーニャがほんの一瞬でほんの微かな心の動きだったにしても、彼の誘惑を受け入れかけたかもしれないし、ひょっとするとそれが彼の情欲に希望の火を点すきっかけになったのかもしれないと言っているのだと思います。
注２：	「私だって、何も悪事ばかりしなければならん義理はありませんからね。」この言葉は、ゲーテの『ファースト』の悪魔メフィストフェレスの有名な言葉、「私は絶えず悪を欲しながら、絶えず善を行う力の一部である。」の言い換えです。「スヴィドーリガイロフはどこにおいても一本調子には書かれていない。彼は黒一色の人物ではない。悪党、淫蕩でシニカルであるくせに、小説全体にわたって数々の善行を行うが、それは他の作中人物たちをみんな合わせたよりも多いほどだ。潜在的には大きな良心と大きな力を持った人間である。彼の幽霊と夢は変形した彼の良心である。スヴィドーリガイロフの物語は、真の人間は信念なしには、また理想という光に照らし出され清められる活動なしには生きられないことを証明している。（キルポーチン）
注３：	田舎の風呂場みたいな煤だらけの小さな部屋で、どこを見ても蜘蛛ばかり、これが永遠だとしたら。（注２）スヴィドーリガイロフの持つ唯一の情熱は、女性に対する情熱である。理想や信仰を持たず、形而上学的価値観を喪失している彼にとっては、すべてが許されている。自由である。しかしその自由は、永遠の退屈である。蜘蛛の巣のはった風呂場は、永遠についての彼の観念である。　　（朝日カルチャーセンター　川端香男里氏の講義内容から。）スヴィドーリガイロフの田舎の風呂場のような小さな部屋とラスコーリニコフの棺桶のような屋根裏部屋との類似性を指摘する研究者も多い。同じ虚無と死の世界の住人というわけである。ロシア文学者の江川卓氏は、「メスがオスを食う蜘蛛の魂」から、妻マルファーの持ち村に閉じ込められ、メス（マルファー）の「性のいけにえ」とされながらも逸楽にふけったスヴィドーリガイロフの閉ざされた七年間のイメージだといっている。（謎解き罪と罰）私は、川端香男里氏の見解に近い、空虚で暗い来世、他界のイメージだと考えています。