お手軽文学散歩　第１８話「ドストエフスキー「罪と罰」について（１８）」 第１８話　ドストエフスキー「罪と罰」について（１８）

ラスコーリニコフは、ソーニャの家に向かいました。
ロシアの家は数階建てで普通一戸２ＤＫとか３ＤＫに仕切られていますが、個々の部屋を再貸ししています。時にはマルメラードフ家のように一部屋を一家族で間借りすることもあります。
ソーニャは、三階建の建物の二階に住む仕立屋カペルナウモフから一室を間借りしていました。右隣はレスリッヒという人の住居でした。隣とは廊下ではなく、閉め切ったドアで仕切られているだけでした。その右隣の部屋は空室になっていました。

もう夜の十一時でした。
「これは僕の最後の訪問です。おそらくもう二度と会うことはないでしょう。」
「あなたは、…………どこか遠いところへ？」
「わかりません。すべては明日…………僕は一言あなたに言い残したことがあって来たのです。…………あの頃あなたのお父さんがすっかり話してくれたんですよ。あなたが六時に出て行って、八時過ぎに戻ってきたことも、カテリーナ・イワーノヴナ（義母）があなたのベッドのそばにひざまずいたことも。…………お義母さんはあなたを打とうとしたことがよくあったそうですね。」
「まあ　そんなこと、違いますわ。ああ　あの人がどんな人かちょっとでも知ってくださったら、本当にまるで赤ちゃんみたいですのよ。それに頭がすっかり乱れてしまって……悲しみのあまり。……心のやさしい人でしたわ！あなたは何もご存じないのよ。ああ」
《蒼白い頬に赤みがさし、目に苦悩の色が浮かんだ。飽くことを知らぬ同情とでもいうものが、不意に彼女の顔中にみなぎった。》

ソーニャは言葉を続けます。
「あの人はあなただけが頼りなのよ。これからはあなたが助けてくださるなんて言って。故郷に帰り、上流階級のお嬢さんがたの寄宿学校を開くなんて言って。………空想をすっかり信じこんでいるの。今日は一日中洗ったり、拭いたり、繕ったり、とうとう息を切らして倒れてしまったわ。本当にかわいそうで見ていられませんわ！…………私は何度あの人を泣かせたことでしょう。そう、つい先週も、父が死ぬ一週間前に。…………」
ソーニャは、カテリーナが欲しがったのに、リザヴェータ（ラスコーリニコフに殺された金貸し老婆の義妹）に作ってもらったカラーとカフスをどうしても惜しくてあげることができなかったと、涙ながらに語ります。
「あの古着屋のリザヴェータをあなたは知っていたんですか？」
「ええ、じゃ　あなたも知っていましたの？」
ラスコーリニコフはそれに答えません。
「カテリーナ・イヴァーノヴナは肺をやられています。かなりひどく。もう長いことはないでしょう。」
「まあ、違います。違います。違いますわ！」
「ところで、もしあなたが病気になって、病院に収容されたらいったいどうなるでしょう？一家そろって街へ恵みを乞いに出かける、カテリーナ・イヴァーノヴナはごほんごほん咳をしながら、袖を乞い、そのうち道端に倒れて、病院に送られて死ぬ！子供達はあとに残されて………」
「おお　やめて！………神様がそんなことを許しませんわ！」
「ポーレチカもきっと同じ運命になるでしょう。」
「違います！違います！そんなことあってたまるもんですか。違いますとも！………神様が、神様が、そんな恐ろしいことを許しません！」
「他の人には許していますよ」
「いいえ、違います！あの娘は神様が守ってくださいます、神様が！」
「だが、神なんて存在しないかもしれませんよ。」
《ソーニャの顔はさっと変り、ひくひくと痙攣がはしった。彼女は言葉につくせぬ叱責を込めてじっと彼を見つめた、そして何か言おうとしたが、言葉にならず、不意に両手で顔をおおって、なんとも言えぬ悲痛な声でわっと泣き伏した。…………
五分ほど過ぎた。不意に彼は、いきなり身を屈めると床にひれ伏して、彼女の足に接吻した。ソーニャはぎょっとして、あわてて後ずさった。
「何をなさるんです？私なんかの前に！
「僕は君に頭を下げたんじゃない、人類のすべての苦悩に頭を下げたんだ。」》

「わたしは、………罪深い女ですわ。」
ラスコーリニコフは、ソーニャが深い大きな苦悩の中にいることを理解します。そして彼女が何故、結局は誰も救いだすことができないことを知りながら、自分を殺し、自分を売り渡す泥沼の中を、罪の女として生きているのか疑問を持ちます。これが恐ろしいことでなくて何だろう。
「君の内部には、こんな汚らわしさやいやらしさが、まるで正反対の数々の神聖な感情と、いったいどうして一緒に宿っていられるのだ？いきなりまっさかさまに河へ飛び込んで、ひと思いにけりをつけてしまうほうがどれほど正しいか、そう思わないか？」
「じゃ　あの人たちはどうなりますの？」

ラスコーリニコフは考えます。
『彼女には三つの道がある。運河に身を投げるか、精神病院に入るか。あるいは………あるいは、理性を鈍らせ、心を石にする淫蕩な生活に落込むかだ。まだ魂の清らかさを保っているこの女が、ついにはあの汚らわしい悪臭に満ちた穴の中へ引き込まれていくのだろうか？』
『今日まで彼女を河に飛び込ませなかったのは、罪の意識（注１）だ。あの人たちだ。じゃ、今日まで気が狂わずにいられたのは………だが、果たしていまノーマルな理性を持っているだろうか？奇跡でも待っているのか？果たしてこうしたことがみな発狂の兆候でないと言えようか？』
「それじゃ、ソーニャ、君は真剣に神にお祈りをする？」
「神様がなかったら、私達はどうなっていたでしょう？」
「だが、それで神様は君に何をしてくれた？」
「言わないで！何も聞かないで！あなたにはそんな資格はありません！………何でもすっかりしてくださいますわ！」
『これが出口なんだ。これが出口の告白なんだ。』
《新しい、奇妙な、痛々しいような気持で、彼はこの蒼白い、痩せた顔、激しい火花を散らし、厳しい力強い感情をむきだしてぎらぎら光ることもある優しい空色の目、まだ怒りに震えている小さな身体を見つめていた。『狂信者（注２）だ！』　彼は腹の中で繰り返した。》