お手軽文学散歩　第１６話「ドストエフスキー「罪と罰」について（１６）」

第１６話　ドストエフスキー「罪と罰」について（１６）

「人殺し！」
ひとりの町人の、低いがはっきりした声が聞こえました。
「あなたは何を言うのです。誰が人殺しです？」
「お前が人殺しだ。」
町人は、はっきり言葉を区切りながら言うと、振り向きもせずに去って行きました。
ラスコーリニコフは、力の抜けたおぼつかない足どりで、膝をがくがく震わせながら、全身凍えきったようになって、下宿にもどると、ソファーに崩れ折れるように横になります。

≪あれは何者だ。地中からひょっこり涌いたようなあの男はいったい何者だろう。あいつはすっかり見ていたんだ。それにしてもどこに隠れていたんだろう。なぜ今頃になってひょっこり出てきたんだろう。≫
≪どうして俺は、自分を知り、自分を予感していたくせに、斧で頭をたたきわるなんて大それたことができたのだ？………..いや、ああいう人間は出来が違うんだ。一切を許される支配者というやつは。ツーロンを焼き払ったり（注１）、パリで大虐殺をやったり（注２）、エジプトに大軍を置き忘れてきたり（注３）、モスクワ遠征で五十万人もの人間を浪費したり（注４）、それで死ねば銅像を建てられる、＿＿つまり、全てが許されているんだ。≫

注１：	フランス南部の都市、１７９３年ナポレオンは、ここで初めて王制主義者を粉砕、勝利を収め、准将の官位を得た。
注２：	１７９５年　パリ。王制主義者の数百の死体で、聖ロク教会の入口が血の海となった。
注３：	１７９９年　ナポレオンは最高権力を得ようとして、エジプトに軍隊を置き去りにして、パリにこっそり戻った。
注４：	１８１２年　６１万のナポレオン軍の内、５５万をモスクワ遠征で失った。

≪ナポレオンが婆あのベッドの下にはいりこむだろうか。ええ、くだらない。婆あなんてナンセンスだ。老婆か、あれは間違いだったかもしれないが、あんな婆あなんか問題じゃない！老婆はどうせ病気だったんだ。…………俺はすこしも早く踏み越えたかった。
…………俺は人間を殺したんじゃない、主義を殺したんだ！主義だけは殺した、が、しかし、肝心の「踏み越えること」はできないで、こちら側に残った。…………俺ができたのは、殺すことだけだった。しかも、結局はそれさえ出来なかったわけだ。………主義はどうなるんだ。社会主義者は、勤労を愛し、うまい商売をやり、「全体の幸福」のために働いているじゃないか。俺は「全体の幸福」が実現されるまで待ちたくない。俺だって生活がしたい。それができないなら、生きないほうがましだ。俺は「全体の幸福」の来るのを待ちながら、一ルーブルの金を握り締めて、飢えた母親のそばを素通りしたくなかっただけだ。「全体の幸福を築くために煉瓦をひとつ運ぶ、それで心の安らぎを得る。」か。ははは、どうしておれを除け者にする？おれは一度しか生きられないし、俺だって生活をしたいんだ。≫

ここは、論理的なラスコーリニコフと生身のラスコーリニコフが分裂していく場面です。
弱いラスコローリニコフが、強い論理人間ラスコーリニコフを侵食していく場面です。

彼の「非凡人思想」によれば、殺人は、「主義を殺す」ことでした。そして、「主義を殺した後」踏み越えることで、あちら側の住人「非凡人」になれるはずでした。ところが、「主義は殺した」が、肝心要の「踏み越えること」が出来なかったために、「こちら側に」残ってしまった。つまり、単なる「凡人」としての「人殺し」にとどまってしまったという訳です。

この文章を難解にしているのは、「主義」「principle」という言葉です。ロシア語の辞書をひくと、原理、原則、主義、道義、道、本質、本源という言葉が並んでいます。ところが、米川正夫、江川卓、工藤精一郎訳すべて「主義」と訳されています。これは、きっと、その後ラスコーリニコフが社会主義について語っているからでしょう。

でも私はこの「主義」は、原理とか道義、つまりキリスト教の「汝殺すなかれ」という摂理という意味に解釈します。ラスコーリニコフは、卑屈、虚偽、忍従の生活から「新しい一歩」を踏み出すためには、流血を恐れないことを示そうとして、神の摂理を殺そうとしたのです。
たしかに彼は、「血を流す」ことは出来ました。しかし、「新しい一歩」を踏み出し、「新しい言葉の世界」へ踏み越えていくことはできなかった。そのために「こちら側に残ってしまった」と嘆いているのです。
しかも、「主義だけは殺した。」といった舌の根も乾かぬ間に、「結局は、それさえ出来なかったわけだ。………….主義はどうなるのだ？」とすぐに、自分の言葉を訂正しています。
結局「主義を殺すことは出来なかった」と自ら認めているわけです。

それでは、「主義はどうなるんだ。」というラスコーリニコフの言葉をどう解釈したらよいのでしょう？つまり、原理、原則、道義はどうなるのでしょう？傲慢な彼には、自分の殺人の後も、「汝殺すなかれ」というキリスト教的摂理が、彼の心の中に残ることに耐えられなかったに違いありません。そこで、社会主義の理念を持ち出します。これは、彼が論理のすり替えをしたのだと、私は解釈します。
勿論　当時の社会主義は、「キリスト教的ユートピア」思想でもありました。でも「社会主義を殺す」」ために「人を殺す」論理などありうるはずがありません。

ラスコーリニコフの論理は決して一貫していません。作者もまた、ラスコーリニコフの論理を描こうとした訳ではないと思います。彼の「人間」を描こうとしていたのです。論理の破綻に苦しむラスコーリニコフという存在の実相を描こうとしていたのです。

「全体の幸福」論は、殺人の釈明の為に考え出したラスコーリニコフの第二の論理です。「ユートピア」の実現まで、一ルーブルを握りしめながら　飢えた母親を見て見ぬふりしつつ、煉瓦を一枚一枚積み上げていくことはできない、一挙に「生活」を実現したかったのだと、汗でぐっしょりになりながら、乾いた唇を震わせながら、心の中で叫んでいますが、これで果たして殺人の正当化ができるでしょうか？勿論、彼自身そんな論理には耐えられません。

《そうだよ、俺はたしかにしらみだ。…………俺はもしかしたら、殺されたしらみよりも、もっといやな汚らわしい奴かもしれない。》
《母を、妹を、俺はどんなに愛していたか！それが今どうして憎いのだろうか？たしかに俺はあの二人を憎んでいる。肉体的に憎んでいる。母を抱きしめながら、母がこのことを知ったらと考えると………….あの時言うべきだったろうか？ああ、そのひとは俺と同じような女性でなくちゃならない。》
"Mother, sister- how I loved them! Why do I hate them now? Yes, I hate them, I feel a physical hatred for them, I can't bear them near me.... I went up to my mother and kissed her, I remember.... To embrace her and think if she only knew... shall I tell her then? That's just what I might do.... She must be the same as I am,"

《ああ、あの婆あが憎らしくてならない。息を吹き返したら、俺はまた殺してやるだろう。かわいそうなリザベータ！どうして入ってきたんだ！それにしても妙だな。俺は何故彼女のことはほとんど思い出さないのだろう。まるで殺さなかったみたいに。リザベータ。ソーニャ。哀れな、愛らしい女たち。愛らしい目の女たち。かわいそうな女たち。どうしてあの女たちは泣かないのだろう。あの女たちはすべてを与えながら、………愛らしい、静かな目で見ている。ソーニャ、リザベータ。》

彼はそのまま前後不覚に陥ります。

この場面で注目すべき点は、母や妹への憎しみが語られることです。愛が深まるとき、愛の中に同時に憎しみが生まれることがある。ドストエフスキー独自の愛の解釈です。

自分の犯行を打ち明けようとする相手について、ここで初めて言及されます。
そのひとは俺と同じような女性でなくちゃならない。こう訳したのは、江川卓だけです。他の訳者は、そのひと（she）を母とみなして「母もおれと同じような人間でなければならない。（米川正夫）」「あのひとは俺と同じような気性のはずだからな。（工藤精一郎）」と訳していますが、私は江川訳が正しいと思います。江川氏がどんな解釈のもとにこう訳したかは不明ですが、Ｓｈｅは原文ではイタリック体になっています。「告白する相手は、自分と同じく罪を犯したものでなければならない。」と言っているのです。私は、Sheは母ではなく、ソーニャを思い浮かべていると、解釈します。
大事なところですから、英語訳をつけておきました。

ラスコーリニコフは、本当にリザベータのことを思い起こすことは稀です。彼の論理にとって不要な存在だからです。
ここは、リザベータがラスコーリニコフの心の中に登場する数少ない場面のひとつです。今回は、論理を失ったラスコーリニコフの心に、哀れな、愛らしい女性たちの象徴として現れ出たのでした。リザベータは今後も出てきますが、その時は必ずソーニャと一対で登場します。これも小説の「謎」のひとつです。

しかし、またしてもラスコーリニコフは愛の世界に生きることができません。前後不覚の彼のもとを訪れたのは、別の女性でした。

彼は自分がどうして通りに立っているのか不思議だった。空には満月が明るさを増していた。通りの向こう側で、ひとりの男が彼を手招きしていた。彼はぎょっとした。それはさっきの町人だった。男はどんどん歩いていく。後を追っていくと、階段だ。もう二階だ。職人がペンキを塗っていた。三階まで来た。前方を行く足音が消えた。ひっそりと静まりかえって、真っ暗だ。きっと男はどこかに隠れているに違いない。あっ、ドアが開け放しだ。部屋はがらんとして人気がない。月の光が冷たく射し込んでいた。すっかりもとのままだ。椅子、鏡、黄色いソファー、額の絵、銅のように赤い月がじっと窓の中を覗き込んでいる。あたりはしーんと静まりかえっている。

ちょうどその時、窓の壁のところにかかっている女物の外套に気がついた。《前には無かったはずだが。》彼はそっと近づいてみた。誰かが隠れているらしい。彼はそろそろ手を伸ばし、外套を除けてみた。するとそこに椅子があって、そのはしっこに老婆がひとりちょこんと座っていた。それはたしかにあの老婆だった。彼は、そっと輪から斧を抜き取り、老婆の脳天に打ち下ろした。一度、二度、ところが不思議なことに、老婆はまるで木の人形のように、身動きしなかった。老婆の顔をのぞいた。のぞいたとたんに、はっと息が凍った。老婆は座ったまま、笑っていたのだ。静かに音もなく笑っていた。
その時、不意に寝室のドアがわずかに開いて、そちらでも笑いながらこそこそ囁きあっている気配がした。彼は憤怒のあまり気違いのようになって、力まかせに老婆の頭を殴り始めた。ところが斧を振り下ろすごとに、寝室の笑い声と囁きがますます高くなり、老婆もいよいよ身をもみしだいて笑うばかりだ。
彼は逃げ出そうとした。踊り場も階段も下のほうも、すっかり人の山、鈴なりの頭だ、みんながこっちを見つめている。みな息を殺して、ものも言わずにじっと待っている。……….彼は心臓がしめつけられ、足が動かない。根が生えてしまった。………彼は大声で喚こうとした、とたんに目が覚めた。

彼は苦しそうに息をついだ。ところが不思議だ。まだ夢が続いているような気がした。部屋のドアがあいていて、戸口に見知らぬ男が立って、じっと彼を見つめていた。

それはスヴィドーリガイロフでした。