お手軽文学散歩　第１５話「ドストエフスキー「罪と罰」について（１５）」

第１５話　ドストエフスキー「罪と罰」について（１５）

殺された老婆から金を借りた者達を調査していると聞いて、ラスコーリニコフは父の形見の時計と妹の指輪を預けたことを申告しようといって、予審判事のポルフィーリーのもとへ出かけます。
予審判事がラズミーヒンの親戚で親しいと聞いて同行を求めます。

予審判事とは、（前に今の検事にあたると書きましたが、正確にいうと間違いでした。）あくまで裁判官なのです。
１８６０年代に司法改革が行われました。
それまでは、警察が過酷な取調べ（多くは拷問）で自白を強要し、非公開の秘密裁判で裁いていたのを、予審判事が証拠を吟味して裁判にかける罪か否かを判断したうえで、イギリス、フランスのように陪審員と裁判官により刑を確定する制度に改めたのです。
勿論警察も検事も弁護士もいて、捜査、告訴、弁護活動が行われます。

なお、１７５３年には皇帝殺害（未遂を含む）以外の死刑は廃止されました。
事実上死刑に相当するような過酷な鞭打ち刑がその後も存続しましたが、１８６３年にはそれも廃止され、殺人罪などの最も重い刑罰でも、最長二十年の徒刑（シベリアなど辺境での強制労働）でした。
（もっともドストエフスキーの小説「悪霊」の殺人犯フェージカのように累犯によっては終身刑もあったようです。）

ポルフィーリーは名前です。
この小説で唯一名前と父称だけで呼ばれる、姓が判らない登場人物です。
まだ三十五、六歳の、中背より一寸小柄、でっぷり太っていて、それでいて女性的なところを感じさせる、ただそんな身体にそぐわない厳しい目の光を持った男です。
「あなたは、警察に届けを出すべきでしょうな。」といいながら、「もっとも、私に書類を出していただいても結構です。」と事務的な対応をします。
しばらくするとこうも言います。
「私はあなたのお出でをもう大分前から待っていたのですよ。………….今はもうほとんどすべての預け主がわかっているのです。出頭しなかったのはあなただけですよ。」
ラスコーリニコフは自分が病気だったと説明しますが、頭の中ではいろいろの考えが旋風のように渦巻いています。
「くそ、なぐるなら堂々となぐれ。だが、猫が鼠をいたぶるような仕打ちは止めてくれ。犬のように俺の後をつけまわしていたのを、隠そうともしない。」
ラスコーリニコフは、犯行の後、金貸しの家に行って血のことを尋ねたり、警察に行こうと喚いたことを、ポルフィーリーが知っているかが気がかりでなりません。
そのことを突き止めたい一心になっています。
ラズミーヒンが、犯罪についての議論を始めます。
「社会主義者は、犯罪は環境に蝕まれたためで、社会機構の不正に対する抗議だといい、社会がノーマルになれば犯罪はいっさい無くなると言うが、フーリエのいう共同宿舎のような、数学的頭脳から割り出された無垢な社会システムがあっという間にできるわけがない。しかも、人間の自然を無視した論理だ。人間は生きた魂をもっている。生きた魂はシステムには従わない。人間は懐疑的で、反動的で、四十男が十歳の少女を強姦するというような犯罪は、環境では説明つかない。」と言いまくります。そして会話は「第８話」に書いた、ラスコーリニコフの犯罪についての論文、有名な「凡人」と「非凡人」の場面になっていきます。
ポルフィーリーが言います。
「すべての人間は凡人と非凡人に分けられる。凡人は服従の生活をしなければならないし、非凡人はあらゆる犯罪を行い、勝手に法律を踏み越える権利を持っている。たしかこういう思想でしたね。」
「僕の書いた意味はすこし違います。非凡な人は必ず常に無法行為をする義務があるなんて言ってません。ただ非凡な人間はあらゆる障害を、それも自分の思想の実行がそれを要求する場合だけ、踏み越える権利がある。公式な権利というわけではなく、自分の良心に許す権利があると、簡単に暗示しただけですよ。………….でもこんなことは、目新しい思想ではありません。もう何度となく書かれて読まれてきたことです。僕はただ自分の根本思想を信じているだけです。それはつまり、人間は自然の法則によって、二つの層に大別されるということです。つまり低い層（凡人）は自分と同じような子供を生むことだけを仕事としている、いわば材料です。そして高い層（非凡人）は、本来の人間、つまり自分の環境の中で、新しい言葉を発言する天分か才能をもっている人々です。この第二の層は、皆法律を冒しています。その能力から判断して、破壊者か、もしくはその傾向を持つ人です。そして自分の思想のために、たとえ血を見、死骸を踏み越えても進まねばならぬとなれば、ひそかに、良心の声にしたがって、血を踏み越える許可を自分に与えるでしょう。しかし、それほど心配することはありません。いつの時代も民衆は、彼らにこのような権利があるとは、ほとんど認めません。そして彼らを処罰したり、絞首刑にしたりします。もっとも時代が変わればその同じ民衆が、処罰された彼らを支配者の地位にまつりあげてぺこぺこするわけですがね。第一の層は現在の支配者、第二の層は未来の支配者です。第一の層は世界を維持し、常に大多数です。第二の層は、世界を動かし、それを目的に導きます。永遠の戦争万歳です。むろん新しいエルサレムが生まれるまでですがね。」
そして、新しいエルサレムを、ラザロの復活を、神も信じているかという質問が続くのです。このことは第８話に書きました。

ポルフィーリーは核心に迫ってきます。
「ところで凡人、非凡人はどこで見分けるのでしょうか？」つまり、凡人が自分を非凡人とみなして《一切の障害を》踏み越えようとしたら、どこで見分けるのかと質問します。
ラスコーリニコフは「凡人も自分を進歩的な人間、つまり破壊者と思い込んで、新しい言葉を吐きたがるものです。そのくせ本当の新しい人を認めないばかりか、軽蔑します。でもそんなものは心配いりません。遠くには行かないものです。時には鞭で殴ってやってもいいですが、そんな必要もありません。自分で自分を鞭打って、すぐに悔悛の印を加えるでしょう。なにしろ品行方正ですから。」
つまり、凡人は、最後まで自分の思想を押し通す意志も能力もなく、既存の社会通念にすぐ屈服するから、非凡人ではないという証拠をすぐに露呈するというのです。

ポルフィーリーはなお、問い詰めます。
「非凡人、つまり他人を切り殺す権利を持っている人々は多いですか？」
ラスコーリニコフは答えます。
「それも心配いりませんよ。何か新しいことを発言する能力をほんのちょっぴりでも持っている人間でさえ、ごくまれにしか生まれません。おびただしい数の人々、つまり材料は、ある努力をへて、ある自然の法則（まだ発見されていないが、必ずあるはずです。）によって、神秘的なプロセスによって、たとえ千人に一人でも、いくらかでも自立的な人間を全力をふりしぼってこの世に生み出すという、ただそれだけのために生きているのです。もっと広い自立性を持った人間は一万人に一人、さらに広大な自立性をもつ者は十万人に一人、天才的な人々は百万人に一人でしょう。偉大な天才、人類の完全な組織者などは、何世代にもわたる何十億という人々の中からやっと一人出るか出ないかでしょう。」

二人の会話を聞いていたラズミーヒンがついにたまりかねて、大声で言います。
「なんだい、君たちはふざけあってるのか？だましっこしてるのか？ロージャ、君は真面目なのか？………….まあ、真面目ならそれでいいよ。でも君のいうことは、そう、君自身が言ったように、別に新しい思想じゃない。僕らがもう何度なく読んだり、聞いたりしたものの類似にすぎんよ。だが、この中で実際に独創的なもの、しかも実際に君だけのものは、＿＿＿恐ろしいことだが、良心に従って血を許していることだ。つまり、ここに君の論文の根本思想があるわけだ。」
ポルフィーリーも言います。
「全くそのとおりです。はるかに恐ろしいことです。」
ラスコーリニコフは言います。
「論文にそんなことは全然ないよ。暗示があるだけさ。」
ポルフィーリーはもう椅子に座っていられなくなった様子でした。
「あなたが犯罪をどう見ているか、おおむね分かりました。で、例えば、ある男が自分は未来のマホメットだなんて思い込んで、いきなりあらゆる障害を排除するなんていいだしたらどうします？遠征の資金が必要だというわけで。」
ラスコーリニコフはにやりと笑います。
「まあそのままにしておくんですね。それは僕の罪じゃありませんよ。ラズミーヒンは今、僕が血を許すって言いました。それがどうしたっていうのです？社会は流刑や、監獄や、予審判事や、苦役がいっぱい保証されているじゃありませんか。捕まえればいいのですよ。当然の罰が待ってるでしょう。」
「だが、その男の良心は？」
「良心がある者は、あやまちを自覚したら、苦悩するでしょう。それがその男に下される罰ですよ。苦役以外のね。」
ラズミーヒンが尋ねます。
「じゃあ、天才は、つまり人を殺す権利を与えられてる連中は？彼らは他人の血を流しても全然苦しんではならないっていうのかい？」
「ならない。どうしてそんな言葉を使うんだ？そこには許可もなければ禁止もないよ。犠牲を憐れに思ったら、苦悩したらいい…………苦悩と苦痛は広い自覚と深い心にはつきものだよ。真に偉大な人々は、この世の中に大きな悲しみを感じとるはずだと思うよ。」
言い終わったラスコーリニコフについて、作者はこう書いています。
＜彼は目を上げると、ぼんやり一同を見回し、にこッと笑って、帽子をとった。ここに入ってきたときに比べると、あまりにも落ち着きすぎるほど落ち着いていた。＞

ポルフィーリーはまた言います。
「もうひとつだけ質問させて下さい。…………あなたはあの論文をお書きになったとき、ほんのちょっぴりでも、「非凡人」で、新しい言葉をしゃべる人間だとは、お考えにならなかったでしょうか？」
ラスコーリニコフは軽蔑するように答えます。
「多いにあり得ることです。」
「とすれば、あなたもそれを決意なさるかもしれませんな。例えば、生活上の何かの失敗や窮乏のためとか、あるいは全人類を益するためとかで、………..障害とやらを踏み越えることをですよ。…………まあ、いわば殺して盗むというようなことを？」
ラスコーリニコフは、挑戦的な傲慢なせせら笑いを浮かべながら答えます。
「踏み越えたとしても、勿論、あなたには言わないでしょうよ。……………………お断りしておきますが、僕は自分をマホメットともナポレオンとも考えてはいませんよ。」
ポルフィーリーは急になれなれしい調子になって言います。
「よしてくださいよ。今のロシアに自分をナポレオンと思わないような奴がいますかね？」
すると、突然隅のほうで、あの警察官ザミョートフが言います。
「そこらの未来のナポレオンじゃないかのかい？先週あの金貸しの婆さんを斧で殴り殺したのもさ。」

重苦しい沈黙の一分間が過ぎた後、ラスコーリニコフはくるりと向き直って、出て行こうとします。ポルフィーリーが、気味悪いほど愛想良く片手を差し伸べながら言います。
「もうお帰りですか？先ほどの件、よかったら明日にでも僕の事務所に届けて下さい。
すぐに手続きをしましょう。ちょっと、お話もしたいし、………あなたなら、最近あそこを訪れた一人ですから、何か手がかりになるようなことを教えていただけるのではないかと………..」

ラスコーリニコフのナポレオン論、あるいは「凡人・非凡人論」として、世界の著名な哲学者、文学者が百年以上にわたって様々な視点から論及してきた、深遠な形而上学的問題を含む、汲み尽くしても汲み尽くせない謎に満ちた章です。
それだけに、読者それぞれがそれぞれの解釈を楽しむことができる部分とも言えます。
今回はできるだけ原文に近い長い引用をしましたが、ここに引用しきれなかった形容詞、動詞、しぐさや表情に、謎を解く鍵が隠されているかもしれないのです。
そこに注目すると、読むたびに解釈が変わったりします。
兎に角、感想、解釈を書いてみます。

①ラスコーリニコフとポルフィーリーの論争は、それぞれ本当のことをいってるのでしょうか？
ラスコーリニコフは、予審判事に直接質草の申告をするなど、犯人なら絶対にしないことをあえてすることによって、自分は犯人ではないと印象付けようとしています。その上で、どこまで警察の調査が進んでいるかを探ろうとしたのです。
ポルフィーリーは、ラスコーリニコフの警察署での卒倒、四日間の昏睡状態でのうわごと、水晶宮でのザミョートフとの会話、そして犯行後あの家を訪れてトラブルを起したことまで、すべて知った上で、罠をかけようと様々な尋問を試みているのです。
したがって、この論争はかけ引きです。果たしてラスコーリニコフが正直に真摯に自分の論文の主旨を説明していたか、まして確信をもって論旨を主張していたかは疑わしいと思います。

論文を書いた頃のラスコーリニコフは、空想家で、瞑想家でした。
彼の論文は「犯罪遂行の全過程における犯罪者の心理状態に関する考察」。「すべての犯罪が露見するのは、細心の注意が最も必要な犯行の瞬間に、理性が病気のように曇り、意志の衰えが生まれるからである。」つまり、意志の衰え、理性の曇りという病気が襲わねば、完全犯罪は可能であるというものでした。そして、非凡人は、犯罪が自分の良心が許せる場合、つまり、それが新しい言葉の発見、その行為が全人類の救済につながると確信する場合には、他人の血を流すことを自分に許す権利を持つと、暗示の形で、匂わせたのです。勿論こんなことを書けたのは、まして雑誌に投稿できたのは、彼が犯罪者ではなかったからです。
論文を書いた当時のラスコーリニコフは、屋根裏部屋（戸棚）（納戸）の住人でした。
ポルフィーリーと対峙していた時は、棺桶（墓穴）の住人、ほんの１平方米の狭い場所で生きたい、生きたいと叫んでいる死刑囚でした。（第１２話）

母が、妹が、周りのすべてが千里も遠い世界にいるとしか実感できなくなった殺人者が、果たして、自分に迫ってくる予審判事とまともな哲学的な会話ができるものでしょうか。
「良心に照らして、平然と他人の血を流せる人間」それこそがラスコーリニコフの考える非凡人です。良心を持たないのではありません。良心の呵責を感じないのではありません。彼の殺人はあくまで良心の命じる行為なのです。
勿論、そんな主張は予審判事にできるはずがありません。だから、目新しくない、もうすでによく書かれ、どこかで読んだことがある平凡な、「凡人・非凡人論」「天才論」になってしまったのだと思うのです。法科の学生であるラズミーヒンが、こんな常識的な議論を聞いて、「ふざけあってるのか？」と怒鳴るのももっともです。

②しかし、ラスコーリニコフの言葉から、隠されていた本心が露呈されたのでしょう。ラズミーヒンがそれを見抜きました。「だが、この中で実際に独創的なもの、しかも実際に君だけのものは、＿＿＿恐ろしいことだが、良心に従って血を許していることだ。つまり、ここに君の論文の根本思想があるわけだ。」
良心の問題が複雑なのは、凡人は「障害を踏み越えても（例えば殺人をしても）」すぐ良心の呵責に悩み、屈服し、自分で自分を罰するのに、非凡人は「平然と障害を踏み越えて行く」と言ってることです。殺人を自分の良心に照らして許すことができて、初めて非凡人になるということです。
ラスコーリニコフの明晰な頭脳は、この自分の思想を一般的、常識的な天才論の中に、うまく織り込んでいることです。もし、彼が殺人を犯さずに、哲学論争を展開すれば、もっと彼の論旨は明確になったことでしょう。
だから「良心に照らして許される踏み越え」とは何か、神の代理としての行為であるのか、神がいなければすべてが許されるのか、法的に罪を犯した人間の自由な行為（ｃｒｉｍｅ）は、法で裁けても、神には裁けないのか、ラスコーリニコフの罪は、犯罪（ｃｒｉｍｅ）か、咎（ｓｉｎ）かとか、様々な疑問が生じてくるのです。

③「第一の層は現在の支配者、第二の層は未来の支配者です。第一の層は世界を維持し、常に大多数です。第二の層は、世界を動かし、それを目的に導きます。」
このラスコーリニコフの言葉は、唯物史観的な社会変革の指導者と大衆のことを言ってるように聞こえます。だから、ラズミーヒンは目新しいところのない理論だと言い、ポルフィーリーは当時の青年が皆持っているナポレオン崇拝熱だと言うのです。
しかしラスコーリニコフは、むしろそう誤解してくれるように話しているような気がします。彼は、もっと根源的に凡人と非凡人の二種類の人間が存在するのは自然法則だと言ってるのですが、ラズミーヒンもポルフィーリーも理解していないようです。

二種類の人間の存在が自然法則として決められているという議論は、正直難しくて私にもまだ理解しきれません。
一言思いついたことを言えば、当時、ドストエフスキーが一時信奉し、そのメンバーになったために捕えられ、シベリア流刑にまでなったフーリエ主義という空想社会主義思想がありました。その理論では、自由・平等の共同体生活を理想社会と想定していました。やがてドストエフスキーは、どんな平等社会が実現されても、少数の管理する者と大多数の管理される者の支配と服従の関係が絶対的に発生することが避けられない、人間の理想が実現しても貫徹する二種類の人間関係、支配と服従、主人と奴隷に分かれる自然法則が存在すると考えるようになっていました。
後の作品「悪霊」のシガリョフ主義や「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」でさらに展開されていきますが、十九世紀のドストエフスキーが、二十世紀のスターリンの個人崇拝体制を予見したと高く評価された理論です。ラスコーリニコフの思想はその発端となったものと考えられます。

なおラスコーリニコフは流血を恐れない非凡人を数名列挙していますが、その中にマホメット、ナポレオンと並んで、ニュートンの名を挙げています。これも「ニュートンの法則」に基づき、共同体社会を作ろうとしたフーリエを念頭においたからかもしれません。ニュートンは造幣局長の時、贋金作りの頭目を死刑に処したというエピソードがあったので、その残酷な一面を示したのかもしれません。

松岡正剛『四運動の理論』上下を参照下さい。

④最後の謎は、話し終わった後のラスコーリニコフの落ち着きです。
＜彼は目を上げると、ぼんやり一同を見回し、にこっと笑って、帽子をとった。ここに入ってきたときに比べると、あまりにも落ち着きすぎるほど落ち着いていた。＞
何がこのような安堵感、平静さをもたらしたのでしょうか？
自分が犯人ではないと予審判事に示すことができたという自信でしょうか？私はそうではなく、鍵は彼自身が吐いた次の言葉にあると思うのです。
良心がある者は、あやまちを自覚したら、苦悩するでしょう。それがその男に下される罰ですよ。
真に偉大な人々は、この世の中に大きな悲しみを感じとるはずだと思うよ。
これらの言葉は、恐らく無意識に、彼の殺人を行う非凡人論理とは別に、彼の心の奥から漏れて出たものに違いありません。どんな非凡人でも、苦悩と苦痛が消えることはない、犠牲者を憐れむ心を持つ偉大な非凡人がいることに、ふと気付いた時、彼に微笑が生まれ、冷静さが戻ってきたのです。「良心を持って、良心の命じるままに、他人の血を流す非凡人」という彼の論理とは矛盾する、良心の持つ苦悩、苦痛、憐れみという感情が生まれたに違いありません。その感情が彼に微笑を、落着きをもたらしたのだと思うのです。ただ、またしてもそれは一時的な安堵感にすぎなかったようです。

Ｐ.Ｓ.
「ロストロポーヴィッチ人生の祭典」（監督ソクーロフ）の中に、次のようなセリフがありました。
「ショスタコーヴィッチとプロコフィエフは、私の偉大な師であり、世界に誇るソ連の大作曲家でしたが、あるとき、政府から非社会主義的だと強い非難が浴びせられました。私が最も悲しかったのは、ある新聞の投書でした。投書はこう書いていました。『何故今でもラジオからふたりの音楽が流れているのか。私はその度に急いでスイッチを切ります。』
しかし私は理解しました。平凡な人々は天才を理解できないのだ。そういう平凡な人々が何百万人もいるし、やがてそういう人々が子供を生み、孫を生むと、その数が数千万人、数億人に増えていくのだろう。それが悲しかったのです。」
ロストロポーヴィッチも世界的なチェロ奏者で名指揮者、十七年間も亡命生活を余儀なくされました。このセリフは名誉を回復してロシアに戻ってきた彼の、八十歳の時の述懐です。
ラスコーリニコフは、非凡人、天才は他人の血を流すことを恐れないといいますが、事実は逆です。天才は迫害され、自らの血を流すのです。決して他人の血を流すことはありません。その意味でラスコーリニコフは完全に間違っています。