お手軽文学散歩　第１４話「ドストエフスキー「罪と罰」について（１４）」

第１４話　ドストエフスキー「罪と罰」について（１４）

「幻影、仮想の恐怖、妄想よ、さらばだ。おれの生命はあの老婆と共に死にはしなかったのだ！さあ、今こそ理性と光明の王国、意志と力の王国の到来だ。さあ、力比べだ。」

突然まだ生きられるという考えがひらめいたのです。傲慢と自信が心の内に成長してきました。友人ラズミーヒンが引っ越したのを思い出し、社会に復帰できるか賭けに挑戦するかのように、新しい下宿に向かいます。
そこでは十五人ほどが集まって引越し祝いの酒を飲み交わしていました。何故か警察官のザミョートフも予審判事のポリフィーリーもいました。
ラスコーリニコフはやはり中に入ることができません。彼はすぐ帰ると言い出します。ラズミーヒンは彼の衰弱ぶりを見て怪しみもせず、したたかに酔っているのに家まで送って行くと言います。医師のゾシーモフは彼を見て、本当に狂人になるかもしれぬと心配して薬を飲ませます。

誰もいないはずの部屋に明かりが見えます。彼は家宅捜査かと一瞬疑います。
ドアをさっと開けた彼は釘付けになってしまいました。
母と妹がソファーに腰掛けていたからです。もう一時間半ほど前から彼の帰りを待っていたのです。

＜我を忘れた歓喜の叫びがラスコーリニコフを迎えた。二人は彼に飛びついた。しかし彼は死人のように突っ立ったままだった。不意に彼を襲った堪えがたい意識が、雷のように彼を打った。二人を抱こうとしても手が上がらなかった。彼は一歩足を踏み出すなり、ぐらりとよろけて床に倒れ、気を失った。＞

ラズミーヒンが抱え上げ、ベッドに寝かせ、水を飲ませます。
ラスコーリニコフはすぐ起き上がりましたが、母親は彼のまなざしにギョッとします。

＜その目は、苦悩に近い激しい感情を宿していたが、同時に、狂人を思わせる、じっと動かない何かがあった。＞

母親は泣き出します。妹は兄の手を握りますが、震えがとまりません。
ラスコーリニコフは叫びます。
「帰ってください。この男が送っていきますから。」
「汽車が遅れて着いたのが夜になってしまったの。ロージャ、わたしはお前がなんと言っても、お前のそばを離れたりしませんよ！今日はここに泊ります。」
「だめです。僕を苦しめないで！出て行ってください！………だめなんだ！」
母親は泣き出します。
「三年も会わなかったというのに、ゆっくり顔を見ることもできないのかい！」

母と妹は、待っている間に女中のナスターシャから、ラスコーリニコフが何日も無為に寝過ごしたり、街へ意味もなく出歩いたり、数日間昏睡状態におちいったりしたことや、ルージンといさかいがあったことなど聞いていたので、ラズミーヒンからこれ以上興奮させると本当の病人になると言われるとすぐ納得して、おとなしく宿に戻ることにします。

帰っていこうとする母と妹に、ラスコーリニコフは声をかけます。
「ルージンには会ったのかい？」
二人の到着を知ってるはずなのに出迎えに来なかったと母が答えると、彼はルージンと会って喧嘩したことを告げ、妹のドーニャに、結婚は反対だときっぱり言い放ちます。

ラズミーヒンは二人を旅館に送っていきながら、すっかりドーニャのとりこになってしまいます。
＜ラズミーヒンが酔った勢いで、突然アヴドーチャ・ロマーノヴナに情熱をもやしたのはたしかに滑稽だった。しかし、ちらとでも彼女をみれば、とりわけ今の寂しく物思いに沈んでいる彼女をみれば、無理からぬものと認めてくれるのではないか。彼女はどきっとするほど美しかった。すらりと背が高く、均斉がとれて、気性の強さがみえ、自信がちょっとした身のこなしにも現れていたが、かといって、その物腰から優雅さと優しさを奪うことは決してなかった。………..熱血漢で、あけっぴろげで、生一本で、誠実で、勇士のように力持ちで巨人のラズミーヒンが、ひと目でボーとなったのも無理がない。しかも偶然は、まるでわざとのように、兄と会える喜びと愛情にあふれたすばらしい瞬間に、二人を引き合わせたのだった。＞

ラズミーヒンは翌朝ラスコーリニコフの下宿に立ち寄り、眠っていることを確かめた後、母と妹の部屋を訪れます。母親は訴えます。
「ああ情けない。あんな子に会おうとは私は全然夢にも思いませんでしたよ。」
そして、ラスコーリニコフの思い出話をします。
「あれは空想ばかりしている子でした。あの子の性格は、まだ十五ぐらいの時から、とても私の手に負えませんでした。一年半ほど前、不意に結婚すると言い出したときは、私は気が動?して死ぬ思いでしたよ。あの下宿のおかみさんの娘さんと。」
ラズミーヒンも知っていました。
「結婚することに決まっていましたが、花嫁さんが死んでしまったんです。器量もよくなくて、醜いほうだったんです。それにおかみさんも気乗り薄でした。」
「わたしはあの時娘さんが死んだと聞いて、申し訳ないけどほっとしました。あの子が娘さんをか、娘さんがあの子をか、どちらかがどちらかを破滅させるような気がしたからです。」

母親は娘の同意を得て、朝届いたルージンの手紙をラズミーヒンに見せます。
そこには、昨夜は所用で出迎えできなかったこと、今日は昼間を母親と息子の対面の日とし、自分の訪問は午後八時としたいことなどが、次の文章と共に書かれていました。
「その際たっての衷心よりのお願いとして、拝顔の節にはロジオン・ロマーヌイチ（ラスコーリニコフ）殿のご同席これなきよう是非とも申し添えます。このお願いにも関わらず、息子様をお見かけいたす折は、直ちに退散のやむなきにいたるべく、その節は自業自得とご承知おきくださいますよう。」
そしてラスコーリニコフが、馬車にひき殺された酔っ払いの男の家で、母親が苦心の末に調達して送金してきた２５ルーブルを、いかがわしき生業を営む娘に葬儀代の名目で渡したと書き添えています。
母親のプリヘーリヤはおろおろしながら、ラズミーヒンの意見を求めます。
ラズミーヒンは落ち着いて、「妹のアヴドーチヤさんが決めたとおりになさったらいいでしょう。」と答えます。妹は絶対に兄に同席させるときっぱりと言い放ち、兄の下宿にすぐ行こうと提案します。

下宿では、医師のゾシーモフがついていました。ラスコーリニコフは昨日に比べればずっと良くなっていました。ただ、相変わらず、ぼんやりとして気難しく、なにか激しい肉体的苦痛をこらえているような蒼白い陰気な顔をしています。母親と妹が入ってきたとき、その顔に一瞬さっと光が射したように見えたが、その光はすぐに薄れ、苦悩の陰が加わって、苦悩だけが顔に残ったようでした。それはなにか拷問に耐えようとする決意のようで、ゾシーモフはゾッとしたと書かれています。
「お母さん、やっと今日になって僕は、あなたがここで僕の帰りを待つ間、どんなにお苦しみになられたか、少しわかりかけてきました。」
こう言うと、彼は不意に、何も言わず、微笑みながら妹に手を差し伸べました。その微笑には真実の感情のひらめきがありました。ドーニャはすぐに手をとって、喜びと感謝の気持でいっぱいになりながら、熱く握りしめます。この兄と妹の決定的な無言の和解を見て、母親の顔は喜びと幸福に輝きます。
「全く、これだから僕はこいつが好きなんだ。」ラズミーヒンも小声で言います。
母親は、「ほんとに美しい清らかな心を持った子だわ。なんてきれいな目でしょう。顔全体の美しいことといったら、ドーニャ以上だわ。」と胸の中で感嘆の声を立てながら、ラスコーリニコフにあれこれと問いかけますが、会話を聞いていたドーニャは、こうつぶやきます。
「まあ兄さんたら、義務で、私達に返事しているのかしら？仲直りをするのも、許しを請うのも、まるでお勤めをしているか、宿題の暗誦でもしているみたいだわ。」

会話は、送金してもらった２５ルーブルをマルメラードフの葬式代に渡してしまったことに触れます。許しを乞う息子に母親は言います。「いいのよ、わたしはお前のすることは何でもみんな立派なことだと信じているんだよ。」
次に会話は、ドーニャが家庭教師に行ったスヴィドーリガイロフの妻のマルファーが死んだことに及びます。母親は、スヴィドーリガイロフがその死の原因だといって、犯罪の怖れを匂わせますが、ドーニャは、このときスヴィドーリガイロフを一瞬かばうようなセリフを吐きます。「あのひと（スヴィドーリガイロフ）は奥さんにはいつも我慢強くやさしかったわ。七年間も辛抱してきたのだから、何かのはずみで不意に堪忍袋の緒が切れたのよ。」
しかし、兄にお前はかばってるのかと言われると、「いいえ、いいえ、恐ろしい人ですわ。あの人より恐ろしい人は想像もできないわ。」と身震いします。
スヴィドーリガイロフが毎日のように妻を殴っていたこと、マルファーは水浴療法といって毎日冷水浴をしていたこと、その日もひどく殴られた後、冷たい水に浸かっていたが、その最中に突然死んだという話でした。

ラスコーリニコフは顔を痙攣させたり、死のような冷たい触感が心の中を襲ってくるのを感じて、「みんな腫れ物にさわるみたいですね。僕が恐いですか？」と言いだしたり、不意に部屋を出ようとして皆を驚かしたりします。そうかと思うと、妹がしている七宝焼きの見事な金時計を見てルージンの贈り物かと問いただします。マルファーからの贈り物だという妹の言葉に、ラズミーヒンは何故か安心します。「ルージンさんは何ひとつドーニャに贈り物などしてくれませんわ。」という母の言葉を聞いたラスコーリニコフは、いきなり自分の恋の話を始めます。
「憶えてる？お母さん、僕一度すっかり好きになっちゃって結婚しようとしたこと。全く病身で、乞食に物をやるのが好きで、いつも修道院にあこがれていたっけ。どうして、あの頃あの娘にひかれたのか、自分でもわからない。きっと病身だったからでしょう。……もしあの娘がさらにびっこか、せむしだったら、僕はもっともっと強く愛したでしょう。」
彼は寂しく微笑した後、つぶやきます。「まあ、春の夢みたいなものでした。」

春の夢、それは彼にとっては、千里も遠くの景色でした。
決して昔の思い出、死んだ娘のことだけではなく、今、目の前にいる母親、妹、まわりにいるすべてがこの世のことには思えないのです。彼は誰ともゆっくり話をする機会はもう永久に来ない、語り合うことなど絶対にできないということを、恐ろしいほどはっきりと悟ったのでした。
「ここにいるあなた方だって、まるで千里も遠くから見ているような気がするんです。」
と言って、それきり黙り込んでしまいます。
その恐ろしい沈黙を打ち破るように、母親が言います。
「お前の部屋はなんてひどいんだろう。ロージャ、まるで棺桶みたいだよ。お前がそんな憂鬱症にかかったのも半分は部屋のせいだよ」

もうこれ以上彼にはこの団欒が堪えられそうもなかったけれど、どうしても今日決着をつけようと決心していた問題がありました。彼はそっけなく切り出します。
「ドーニャ、僕は昨日のことは申し訳ないと思ってる。だがどうしてもここでもう一度、根本的な考えは変えないことを、お前にはっきり言っておきたい。僕か、ルージンかだ。僕は卑劣な人間でもかまわないが、お前はいかん。どちらかひとりだ。もしお前がルージンに嫁ぐなら、僕は即座にお前を妹と思うことはやめる。」
妹もそっけない調子で答えます。
「兄さん、この問題では兄さんのほうが間違っているわ。わたしが誰かの為に犠牲になりに行くように、兄さんは思い込んでいるのでしょう。全然そうじゃないわ。私は自分の為に結婚するのよ。自分が苦しいからです。勿論それが身内のために良い結果になったら嬉しいけれど、それが最大の動機じゃありません。……….私は二つの悪のうち、より小さい悪を選びたいの。わたしはあの人が私に期待していることを、何もかも誠実に果たしていくつもり。どうして笑うの？兄さん？」
「何もかも果たしていくのかい？」彼は毒々しく笑いながら聞き返します。
「ある線まではね。あの人は自分を高く評価しすぎているかもしれないわ。でも私の人格も評価してくれると思うの。」
「お前は嘘をついている。女の強情さで、僕に負けるのがいやで、嘘をついているんだ。
お前にルージンが尊敬できるはずがないよ。俺は彼と会って話をしたんだ。つまり、お前は金のために身を売ろうというのだ。卑しい振る舞いだよ。」
「うそよ、私、嘘なんかついていない。あの人が私を尊敬してくれる確信がなければ、結婚するものですか。自分もあの人を尊敬できる固い確信がなければ、結婚するものですか。幸い、私はそういう確信がもてると思うわ。きっと、ええ、今日のうちにも。………..
こういう結婚は兄さんがいうように恥知らずなことじゃないわ。もし兄さんの言うことが正しくって、私が恥知らずな決心をしたのだとしても、兄さんの言い方はあんまりじゃない？どうして兄さんは、おそらく自分にもないような勇気を私に要求するの？そんなの横暴よ、暴力よ。私が誰を滅ぼしたって言うの？自分ひとりを滅ぼすだけよ。………私はまだ誰も殺したことなんかないわ。…………どうしてそんな目で見るの？どうしてそんな青い顔になったの？ロージャ！兄さん！」
母はラスコーリニコフが気絶したと思って駆け寄ります。ラスコーリニコフは一寸眩暈がしただけだと言って、また口を開きます。
「どうしてお前は、今日にも彼が尊敬できるやつだと確信できると言ったんだ？お前は今日って言ったね？それはどういうことだ？」
母のプリヘーリヤは震える手で、ルージンの手紙を渡します。手紙を開く前にラスコーリニコフは突然新しい考えに打たれたように独り言を言います。
「おかしいなあ。何を俺は騒いでいるんだ。誰でも好きなやつと結婚すればいいじゃないか。」
彼はゆっくりと手紙を二度読み返します。
「ずいぶん事務的な文章だね。裁判所で書きそうな文章だ。」とラスコーリニコフが言うと、妹はいくらかむっとして、言い返します。
「ルージンさんは満足に教育を受けていないことを、隠しておりません。自分で自分の道を切り開いたことを誇りにしているくらいだわ。」
「この手紙には絶対に読み過ごせないところがあるよ。＜自業自得＞という表現だ。非常に意味ありげにしかもはっきり書かれている。それだけじゃない、僕が来たら即刻席を立つという脅迫まであった。この席を立つという脅迫はね、母さんと君がもし彼の言うとおりにしないなら、いつだって二人を放り出す、もうペテルブルグまで呼び出した今となっても放り出してやるという脅迫だよ。…………それともうひとつ、僕に対する中傷、それもかなり卑劣な中傷ととれる言い回しがある。僕は昨日肺病を病んで途方にくれている未亡人に金を渡してきたが、それは「葬儀代の名目」じゃなくてはっきり「葬儀代」としてやったんだ。しかもその金は、「いかがわしき生業を営む」娘に渡したんじゃなく、ちゃんと未亡人に渡して来たんだ。これはね、僕のことを中傷して、母さんや妹を僕と仲違いさせようという意図が露骨に見え透いているよ。この男の人格が丸出しだね。この男が君のことをちゃんと評価するなんて、とても僕には思えないね。」
母親はおろおろするばかりでした。
「じゃあお前はどう決めるつもりだね。だってルージンさんは、今晩お前に同席してもらいたくない。お前が来るならすぐ帰ってしまうって書いてるじゃない？お前どうする？来るかい？」
「第一にお母さんが決めることだよ。それと第二にドーニャの決めることだよ。僕はお母さんの言うとおりにしますよ。」
「ドーニャはもう決心してるよ。わたしもそれにすっかり賛成したよ。」
ドーニャは言った。
「私は、兄さん、ぜひともその席に兄さんに来てほしいの。無理にでも来て欲しいの。」
「行くよ。」とラスコーリニコフは答えます。母親はラズミーヒンにも同席するように頼み、勿論彼も同意します。

そのときドアが静かに開いて、ひとりの娘が部屋に入ってきました。ソーニャでした。
彼女は昨日と違い、とても粗末な普段着でした。部屋に人がいるのを見て、すっかり怖気づいていました。ラスコーリニコフは、この辱められた娘があまりにもおびえているのに気付き、急に可哀相になってきました。彼は、母と妹と一緒に座るよう椅子をすすめます。ソーニャは、自分のような者がどういう訳でこの婦人達と並んで座ることが可能になったのかわからないとでもいうように、とまどいながらおずおずと腰をおろします。マルメラードフの教会での葬式と追善供養への出席を依頼に来たのです。そう言いながらラスコーリニコフの貧しい暮らしぶりにすっかり驚いているのです。こんな貧しい人が２５ルーブルものお金をどうして下さったのだろうと。そんな娘を、プリヘーリヤは優しい笑みを浮かべて見つめます。ドーニャの眼も何故か晴れやかになっていました。

母と妹は再会を約束して、息子と別れます。
ラスコーリニコフは妹に叫びます。「もう一度手をおくれ。」彼は妹の手を握りしめます。妹も全身幸福で輝くようでした。
通りに出たプリヘーリヤはこんなことを言います。
「ドーニャ、もしルージンさんに断られたらどうなると思う？」
「そんな人だったら、人間性はゼロよ。」ドーニャは軽蔑するように言い切ります。
「あの部屋の息苦しさってなかったねえ。でも通りに出てもたっぷり空気を吸うこともできない。なんて町だろう。………..ところで、わたしはあの娘もこわいんだよ。きっとあの娘は苦労の種になるから。ルージンさんがあんなことを書いてるのに、私達に紹介するなんて。きっとあの子にとって大事な人なんだよ。」
「ルージンさんの書いたことなんて出鱈目よ。私達のことだってずいぶん出鱈目ばかり書いていたわ。あの娘さんは………心の美しい人よ。ルージンさんはたちの悪い中傷家よ。」

ラスコーリニコフはラズミーヒンを呼んで、小声で予審判事のポリフィーリーを紹介するよう頼みます。
「彼は質草をいれた連中を調べてるそうだが、僕も実は妹の指輪と父の銀時計を預けているんだ。母が見たいと言いださないか、ひやひやしていたんだ。警察に行くより、彼に頼んだほうがいいと思うんだ。」
ラズミーヒンも賛成して、今すぐポリフィーリーの家に行くことになりました。
ラスコーリニコフはソーニャに言います。
「一緒に出ましょう。……..ソフィア・セミョノヴナ（ソーニャの名前と父称。親しい間柄になっていないときに使う言い方）、僕は今日にもお宅にお伺いします。失礼ですが、どちらにお住まいか教えていただけませんか？」
ソーニャは顔を赤らめて、住所を教えます。三人そろって部屋を出ます。
ソーニャにとってこんな体験は初めてでした。はやく一人になって、今日のひとつひとつの言葉、ひとつひとつの事情を考えたり、思い出したり、思い巡らしたりしたかった。大きな新しい世界が彼女の心の中に入ってきたような気がしました。彼が来るといった時には、胸が凍るような思いでした。「あああの部屋へ・・・。見られてしまう。どうしよう。」

彼女の後をそっとつけてくる男がいました。彼女は全く気付きません。

今回の場面は、ラスコーリニコフの絶望的な悲劇と喜劇的なその他の登場人物の対比が特徴的な場面でした。
友人のラズミーヒンは、ここには書きませんでしたが、ラスコーリニコフの看病中の短い間に下宿の女主人と懇ろになっていました。ドーニャに一目ぼれしたにも関わらず、酔っ払っていたためか、ドーニャ自身にこともあろうに、一緒にいる姿を見たらおかみが嫉妬するだろうなどと口をすべらします。翌朝そのことを悔やむ場面が滑稽です。かわりに女主人の部屋に泊まってくれと頼みこまれたゾシーモフが行ってみると、鍵がかかっていたという滑稽なシーンもあります。
医師のゾシーモフは外科医なのに、当時はやり始めた精神分析学に夢中で、ラスコーリニコフを狂人ではないかと疑い、最初の患者として心理分析しよう懸命になっています。ラスコーリニコフはこれ幸いと利用しようとします。
ドーニャが、スヴィドーリガイロフを恐れながらかばったり、ルージンの長所をなんとか見出そうとしたりしている姿には、こまやかな愛情と同時に男性へのコケットリーもほのかに見えます。
棺桶の住人は死のような虚無と憎悪の悲劇を、生きている人間達は喜劇を演じるということかもしれません。