お手軽文学散歩　第１３話「ドストエフスキー「罪と罰」について（１３）」

第１３話　ドストエフスキー「罪と罰」について（１３）

通りの真ん中に高級な馬車が止まっていました。客の姿は見当たらず、御者の声だけが聞こえます。
「旦那がた！　全く不意だったのですよ。馬を飛ばしてきたのなら兎も角、並足なのに。わしは三度もどなったんですよ。見ると、この飲んだくれがひょろひょろと通りを横切ろうとしていたんだ。急いで馬を止めたんだが、この男はまっすぐ馬の前へ出てきて、勝手にぶっ倒れたんだ。わざとやったのか、正体もなく飲んだくれていたのか、わしゃ知らねえよ。」
群集の中から「確かにそのとおりだ。」「間違いない。三度どなった。」という叫び声があがります。

ラスコーリニコフは人垣を押しのけて覗き込みました。
「僕はこの人を知っている。マルメラードフという人です。住所も知っています。早く医者を呼んで下さい。金はありますから！」やって来た巡査に興奮して言います。
「すぐそこです。四軒目です。とりあえず家に運んでください。皆さん、酒手ははずみますから。」

家ではカテリーナ（マルメラードフの妻）が、肺病特有の咳に苦しみながら子供の世話をしていました。十歳のポーレチカが病気の小さな弟コーリャの着替えを手伝っています。
妹のリードチカが色も形も分らなくなったぼろを着て立っています。ドアの隙間から他の部屋から煙草の煙が流れ込んできます。カテリーナは咳こみながら、ポーレチカに話しています。
「おまえは本当にしないかもしれないけど、おじいさんはもう一息で県知事になるような偉い人だったのだよ。私は卒業式のとき、県知事や立派な人たちの前で踊ったんだよ。貴族会長の奥さんが舞踏会で私を見かけて、あの時の貴族女学校のお嬢さんでしょうってお尋ねになったわ。お前のお父さん、（今のお父さんではありませんよ）との結婚式にも来て下さったのよ。」

血まみれで意識不明のマルメラードフが運び込まれると、カテリーナは蒼白になって突っ立ったまま苦しそうに肩で息をするばかりでした。子供達はおびえきっていました。
「馬車ではねられたのです。今に気がつきますよ。心配しないで下さい。医者は呼びにやりましたから。お金は僕が払いますから。」ラスコーリニコフの声に答えて、カテリーナは絶望的に叫びます。
「とうとうやったわね！……….　まあ、胸がすっかりつぶされて！ひどい血！」

間借り人達が集まってきます。家主の女将は、「ここで死なせるわけにはいかない、病院に連れて行け」と迫りますが、カテリーナは断固拒絶します。

マルメラードフはうめき声で言います。
「坊さんを！」

三人の子供たちはがくがく震えながらおびえきってじっと彼を見つめていました。
マルメラードフは大好きな娘リードチカを見て言います。
「はだし！はだしだよ！」
カテリーナは大声で喚きます。「おだまり！どうしてはだしか、分かっているでしょ」

医者がやってきましたが、「絶望です。」と一言、言ったきりでした。
小柄な白髪の司祭が来て、懺悔の式を行います。
＜今死のうとする者に何がわかったろう。マルメラードフの口からは不明瞭な音が出ただけであった。＞と書かれています。

人込みの中から、音もなくおずおずとひとりの娘がやってきました。貧困とぼろと死と絶望のこの部屋に、彼女が突然あらわれたことに、群集は奇異な感じを抱きました。
古びて派手な色の絹服、大きな腰張りのスカート、真っ赤な羽のついたこっけいな帽子、夜には不要なパラソル。帽子の下からは、痩せて青白い、おびえたような顔がのぞいていました。
ソーニャでした。作者はこの異様な姿のソーニャを、＜十七、八才、痩せて小さかったが、かなりきれいなブロンドの娘で、青い目は特にすばらしかった。＞と書いています。
（ドストエフスキーにとって、青色や空色は特別な意味を持っています。青い目は神聖な天使、こどもの純真さの象徴です。）
群集のひそひそ話が聞こえたためか、彼女は目を伏せたままドアの内側で立ち止まったままでした。

司祭が慰めのことばを述べたとき、カテリーナはヒステリックに小さな子供達を指差して言います。
「この子達をどうしたらいいの？」
「神は慈悲深い。主のお助けにすがりなさい。」
「神様がどんなに慈悲深くたって、私達には届きませんよ。」
「そんなことを言ってはいけません。罪ですよ。奥さん。」
「じゃ、これは罪じゃないの？」と、マルメラードフを指して叫びます。
「恐らく償いがでるでしょう。せめて失った収入分でも。」
「あなたは私の言う意味が全く分かってないのね。それに償いって何でしょう。この人は飲んだくれで、自分から馬車に飛び込んだんじゃありませんか。それに収入って何ですの。この人が我が家に持ってきたのは、収入なんかじゃありません。苦しみだけでした。家の中の物をすっかり持ち出して居酒屋へ運んでしまったのよ。この子達と私の生涯を全部居酒屋につぎこんでしまったんですよ。死んでくれてありがたいわ。物入りが減りますもの！」
「死ぬ前には許してあげなければなりません。そんなことを言うのは罪ですぞ。奥さん！」
「お坊さん、許してあげなさいって、言うだけなら何とでも言えますよ。今日だって轢かれなければ、飲んだくれて帰ってきたでしょう。私は明け方まで水へ手を突っ込んで、この人や子供のぼろを洗い、つぎをあて………….これほどにしている私に許せだなんて、そらぞらしい！………….それに今までだって、許してきましたわ。」

恐ろしい咳が彼女の言葉をさえぎりました。ハンカチの中に痰をはき、片手で痛いほど胸を叩きながら、それを司祭に突き出しました。ハンカチは血に染まっていました。
司祭は頭をたれ、口をつぐんでしまいました。

かぶさるように上から覗き込むカテリーナに、マルメラードフは何か言いたそうに舌を動かしていました。カテリーナは彼が許しを請おうとしていることを察して、大声で言います。
「黙ってらっしゃい。いいのよ。分かりますよ。あなたの言いたいことは！」
そのとき、彼はドアの隅に隠れるように立っていたソーニャに気がつき、しきりに身を起そうともがきます。
＜彼は人間のものとは思われぬほどの力をふりしぼって、身をもたげ肩肘をついた。
彼はこんな服装の娘を一度も見たことがなかった。不意にそれが彼の娘であることがわかった。さげすまれ、踏みにじられ、おめかしをして、そんな自分を恥じながら、死の床の父と永別の番がくるのをつつましく待っている娘を見て、計り知れぬ苦悩が彼の顔に表われた。
「ソーニャ！　娘、許しておくれ！」
ソーニャはアッとかすかに叫んで、かけより、父を抱きしめると、そのまま意識が薄れてしまった。マルメラードフはソーニャの腕の中で、息をひきとった。＞

葬式のことを心配するカテリーナにラスコーリニコフは言います。
「ご主人はあなたのことをそれはもう心底から尊敬しながら、あなた方を案じながら、身の上話や家庭のことを僕に語っておられました。そのときから僕とご主人は親しい友になったのです。失礼ですが、お役に立たせてもらいたいのです。ここに２０ルーブルほどあります。これで・・・。では、また寄ります。きっと寄ります。」

そそくさと部屋を飛び出したラスコーリニコフは、思いがけなく警察署長のニコージムから声をかけられます。「おや、大分血がつきましたね。」
「ええ、血まみれですよ！」と言う彼の心には不思議な興奮がこみ上げてきます。
＜彼は自分では意識しなかったが、不意に押し寄せてきたあふれるばかりに力強い生命の触感、ある未知のはてしなく大きな触感に満たされていた。その感じは死刑を宣告された者が、不意に、まったく思いがけなく特赦を申し渡されたときの感じに似ているといえるかもしれない。＞

ラスコーリニコフをポーレチカが追ってきます。ソーニャから名前と住所を聞くように言われて来たのです。こんな会話が交わされます。
「ソーニャ姉さんが好きかい？」
「誰よりも好きよ。」
「じゃあ、おじさんを好きになってくれる？」
「パパがかわいそう。」と言いながら、マルメラードフが文法と聖書を教えてくれたことを語ります。
「お祈りはできるの？」
「皆でお祈りするわ。神よ、ソーニャお姉さんを許し祝福してくださいって。そして、神よ、われらの今の父を許し祝福をたれたまへって。もとのお父さんのお祈りもするわ。」
「ポーレチカ、いつか僕のことも祈っておくれね。」
「あたしこれから一生の間あなたのことをお祈りするわ。」

ラスコーリニコフは明日来ることを約束して別れます。
もう十時を廻っていました。彼はさっき女が身を投げた橋の上にやって来ました。

　日本で始めて「罪と罰」が内田魯庵によって翻訳されたのは、明治２５年（１８９３年）。
それを読んだ北村透谷（日本最初の浪漫詩人）は次のように書いています。

＜殺人罪は必ずしも或見ゆべき原因によりて成立つものにあらざるなり。　（略）　わが「罪と罰」全編ことごとく惨憺たる血臭き殺戮の跡を印するを認むるなり。見よ飲酒はかの非職官吏（マルメラードフ）を殺しつつあるにあらずや。その放蕩瀬惰はその愛らしき妻を殺しつつあらずや。淫売と名つけ肺病と名つけ、堕慢と名つくるもの、これ実に精神的に死してあるなり、殺してあるなり。＞

要するに、マルメラードフは飲酒にふけったために、妻カテリーナを肺病に、娘ソーニャを売春婦に、そして自分自身を自殺に追い込んでしまった。　この飲酒癖、怠慢堕落もまた殺人罪に匹敵する「罪」ではないのかと言ってるのです。そしてこの小説「罪と罰」は、「最暗黒の社会にどんなに恐ろしい魔力が潜んでいるか。」を描くことに主眼があったと述べています。

マルメラードフ自身このことを自覚していたに違いありません。第４話の彼の話をもう一度読んでみてください。
「書生さん。貧は悪徳ならずというのは真理ですなあ。ところが洗うがごとき赤貧となると、これは悪徳ですよ。」
これは社会の悪を告発しているのではありません。自分自身が悪徳によって生きていることの自覚であり、罪の告白です。
赤貧という悪徳の世界の住民の嘆きでもあります。最暗黒の社会の魔力から逃れることのできない運命の表白です。赤貧の中で人はどうして罪を犯さずに生きることができるでしょうか？
「じゃ、これは罪じゃないの？」と、マルメラードフを指して叫んだカテリーナには、このことがよくわかっていました。赤貧の住民同士どんなにお互いに許しあっても、罪を犯さずに生きることができない者には、神様の慈悲は届かない。でも許しあうしかないのです。

ところで、マルメラードフの罪とは何でしょうか？
ソーニャが身を売って、３０ルーブルをカテリーナに手渡した翌朝、マルメラードフはイワン・アファナーシエヴィチ閣下のところに出かけて行きます。
すると閣下はこう言います。
「マルメラードフ、君はこれまでに一度わしの期待を裏切った人間じゃが、……….しかしもう一度わしの独断で、面倒みてあげよう。」
マルメラードフは、閣下のおみ足の塵をなめてもよいと思うほどに喜んで、勤めにでますが、一月ほど経ち、最初の月給２３ルーブルを貰ったその翌日、勤めをやめて、飲んだくれの家出人になってしまいました。
月給以上の金３０ルーブルもの大金をわずか三時間の間にくれたひとは、この閣下以外にはなかろうと、日大教授清水正氏は、その著「ドストエフスキーの暗号」で語っています。私もその意見に賛成です。ソーニャはその後二度とそんな大金を得る機会に恵まれることはありません。
マルメラードフはソーニャに酒代をねだりますが、その額わずか３０カペイカです。（１００カペイカが１ルーブルです。）街頭に立つ娼婦の稼ぎなんてそんなものです。

マルメラードフは「閣下」と顔をあわせることに耐えられずに勤めをサボったのです。酒におぼれるしかなかったのです。カテリーナもその心情がよくわかっていました。だから、誰も何も言わないのに、マルメラードフの死を自殺だと言いはったのです。
「とうとうやったわね！」この悲痛な叫びには、夫への同情と共に、自分達ふたりが冒した罪に対する共通の思い、罪悪感が秘められています。
マルメラードフの「ソーニャ、娘、許しておくれ。」という言葉は一般論ではありません。
心底から、娘の売春によって職を得ようとした自分の罪の許しを、実の娘に請うているのです。
カテリーナだって思いは同じです。幼い子供たちがいなければ自殺したかったに違いありません。カテリーナは自殺するかわりに、我が身を狂気に追い立てていきます。

ソーニャは、娼婦の衣装を着て、神聖な死の儀式の場に臨むことに躊躇していました。だから、実の父、たったひとりの父親の胸の中に飛び込むこともできずに、ドアの陰に身をひそめるしかなかったのです。
ソーニャは自分をどう思っていたのでしょうか。きっと、自分が売春婦になったばかりに父親を死なせてしまった、父親を殺してしまったと、心中深く罪の意識におののいていたにちがいありません。
幼いポーレチカもよくわかっていました。だから毎晩、神にソーニャの許しと祝福を祈っていたのです。
「罪の連鎖」そして「罪ある者同士の共感」。それがラスコーリニニコフの冷え切った、死のような精神構造に振動を与えたのです。だから、神を信じていない彼でさえ、次のセリフを吐くことができたのです。
「ポーレチカ、いつか僕のことも祈っておくれね。」
あふれるばかりに力強い生命の触感が、彼の心に訪れます。
何故でしょう？
カテリーナに手渡した２０ルーブルの善行でしょうか？善行はラスコーリニコフの日常の行為です。最初にマルメラードフを連れ戻した日に、カテリーナに１ルーブルを渡しています。公園で出会ったあの暴行された少女に２０カペイカ、大道芸人の少女に５カペイカと、殆ど毎日のように不幸な人々に金銭を恵んであげています。ラスコーリニコフに生命を与えたのは、単に自分の中の善意の発見でもなければ、善意の行為の喜びでもありません。私は「罪の連帯感」というような特殊な感情ではないかと思っています。マルメラードフとカテリーナと同じ赤貧の世界、最暗黒の社会の魔力を逃れられない運命を彼も共有することによって、死の世界の奥深くにひっそり沈んでいたあふれるばかりに力強い生命の泉に触れたのです。それが枯れない泉であってほしいと、読みながら私は密かに期待しました。