お手軽文学散歩　第１１話「ドストエフスキー「罪と罰」について（１１）」

第１１話　ドストエフスキー「罪と罰」について（１１）

警察からの呼出令状を受けて、ラスコーリニコフは深い絶望と破滅の恐怖に襲われます。

「警察に呼ばれる理由なんてないはずだ。不意打ちに泥を吐かせようというのだ。ひょっとしたら、家捜しをする腹かも知れない。」
「ああ早くなんとかなってくれ！」
「聞かれたら自白してしまうかもしれない。」

警察の階段を昇り始める時には、こうつぶやきます。
「入ったら跪いて一切を告白しよう。」

ところが出頭要請の理由は、ラスコーリニコフが下宿の女主人に借金のかたに振り出した手形の支払い督促の件でした。
ラスコーリニコフは一瞬にして彼の全存在をおおっていた危険から解放され、完全に衝動的な、動物的な歓喜に満たされ、突然饒舌になります。

「僕の立場を釈明させて下さい。僕はあの下宿には三年越し住んでいるのですよ。住むとすぐおかみの娘と結婚の約束を交わしたのです。口約束ですけどね。あの頃、おかみは僕にたくさんの金を貸してくれて、僕は呑気な生活をしていたんです。」
警察官がそんなのろけ話は不要だとばかり阻止しますが、彼はやめようとしません。

「娘は一年前にチブスで死にました。おかみが住居を移ると僕も一緒についていきました。その時、おかみはやさしくこう言ったんですよ。これまでお貸しした分１１５ルーブル、借用証書代わりに約束手形を入れてくれませんか。でもこれを楯にとるようなことはしませんからって。それが今になって食べるのにも困っている時に………..」

ところが話している最中に、彼を不思議な感覚がとらえます。
なにもかもどうでもよくなってきたのです。
心が一瞬にして空虚になって、彼の中に、苦しい果てしない孤独と疎遠の暗い感情ともいうべき、なにかしら彼の全く知らない、新しい、思いがけない、これまで一度もなかったものが生まれかけたのです。

作者はこう書いています。
＜彼はこの瞬間までこのような奇妙な恐ろしい感覚を一度も経験したことがなかった。
それは意識でも理解でもなく感覚だった。直感、これまでの人生で経験したあらゆる感覚のうちでもっとも苦しい感覚であった。＞

警察官は彼に書類への署名を求めます。
「期日は約束できないが必ず返金する」というありきたりの証書でした。署名を終えた彼は、突然奇妙な衝動にかられます。
「自白しよう。今すぐ壁に隠した盗品を見せよう。」
その衝動は強烈なものでした。ふらふらと立ち上がろうとした彼の耳に、突然署長の興奮した声が飛び込んできました。
「なぜ二人を逮捕したのだ。あれがふたりの仕業だったら、彼らはなんだって門番を呼んだのだ？現場をすぐに誰かに見せようとする犯人がどこにいる？」
ラスコーリニコフが部屋に隠れていた時に、訪れたふたりが犯人にされたようなのです。

ラスコーリニコフは帽子を手にして、ドアの方へ歩き出しましたが、気を失ってしまいます。気がついた時には椅子に座っていました。
警察官が黄色い濁った飲み水を持ってきてくれました。そして訊ねます。
「病気ですか？いつからですか？昨夜は外出しましたか？」
「ええ、夜の七時頃」
彼は正直に答えますが、誰も怪しみません。
ラスコーリニコフは家へ帰りながら、ひとりごとを繰り返します。
「捜索、捜索、すぐに捜索が始まるぞ！」

家に着くとすぐに壁の穴から盗品をつかみ出して、捨て場所を求めて街を彷徨います。結局工事現場らしい空き地の石の下の窪みに全部を投げ入れ、もとどおり石で隠します。
その時彼は単純な疑問に気付きます。
「実際あれを俺が意識的にやったとしたら、何故俺は財布の中をのぞこうともしなかったのだろう？」

彼はラズミーヒンの下宿に向かいます。
ラズミーヒンは友を暖かく迎え、翻訳のアルバイトの半分をラスコーリニコフにゆだねようとして、前金の３ルーブルを手渡しますが、彼は受け取らずに無言で帰ってしまいます。翻訳本の題名は「女は人間なりや？」。

橋の上を歩いていた彼は、貴族の乗った箱馬車の御者の鞭に背中を打たれます。遠ざかっていく馬車を悔しそうににらんでいる彼の手に、商家の娘が「キリスト様の思し召しですよ」と言って、そっと２０カペイカ銀貨を押し込みます。本物の乞食と思われたのです。
彼は銀貨を握り締めながら、ネヴァ河のほとりを歩きます。宮殿が見えます。
＜空にはひとちぎれの雲も無く、水は淡いブルーだった。寺院の丸屋根は、まぶしいほどに輝いて、澄みきった空気をとおして細かい装飾もはっきりと見分けることができた。＞　

ここは大学に通っていた頃、百回もここに立ち止まってはこの壮大なパノラマを見た場所でした。
＜この壮大なパノラマからはいつもなんともいえぬ冷気が漂ってくる。彼にとっては、この華やかな光景が唖にて耳聾なる悪霊（マルコ伝第九章二十五節）に満ちてくるのであった。彼はここを通るたびに、謎めいた感銘を覚えるのであった。＞
＜どこか下の深いところに、足下のはるか遠くに、こうした過去のすべてが、以前の思索も感銘も、このパノラマの全景も、そして彼自身も、何もかも一切のものが、かすかに見えたような気がした…………＞
このネヴァ河の幻影というテーマは、ドストエフスキーの小説にしばしば登場します。

ラスコーリニコフの見た金色に輝く寺院と美しい街並みの地底には、過酷な強制労働、疫病、栄養失調で死んだ十数万人の石材運搬人の霊魂が眠っています。ネヴァとはフィンランド語で泥を意味します。毎年大洪水に見舞われます。モスクワの教会に天使が現れて、「この都市は何時の日か荒野に返るであろう」と予言したと民衆は噂していました。貧しい人々にとっては、あちこちに悪霊の徘徊する、守護聖人のいない蜃気楼のような都市でした。
ドストエフスキーはその幻影に戦慄しながらも、その都市の風景の背後に、別の空間、異次元世界との接触感（中村健之介、ドストエフスキー人物事典）を感じていました。
ラスコーリニコフが感じた「謎めいた感銘の正体」も、ドストエフスキーの霊感、直感というべきものに違いありません。それはこの異次元世界との接触感かもしれません。
異次元の世界とは、「無原罪の楽園・・もうひとつの地球」「美しい人（キリスト）のいる世界」のことでしょう。マルコ伝によれば、キリストは汚れた霊を叱って、「唖と聾の霊よ。私は命じる。この子から出て行け。二度と入ってくるな。」と言われました。霊は叫び声をあげ、激しくひきつけて出て行ったと書かれています。
ラスコーリニコフには、その姿が見えたのでしょうか？かすかに見えたような気がしたとは言っていますが、自分の心を満たしている悪霊の姿に遮られて、その姿をはっきりとらえることができなかったのかも知れません。
一瞬にして目の前のすべてが消えてしまい、彼は一切のものから鋏で切り離されてしまいました。かすかに見えたものをもう見続ける力は残っていません。再び虚無の世界に帰って行くしかありません。彼は２０カパイカ銀貨を水中に投げつけて、帰宅します。

彼は幻覚にうなされたり、半ば意識が戻りかけたりしながら四日間眠り続けます。
その間にラズミーヒンが訊ねてきて、女主人を説得して手形を取り戻したり、医者のゾシーモフを呼んで看病したりします。
四日目の朝、意識を取り戻した彼のもとに、母からの送金３５ルーブルが届けられると、ラズミーヒンはその内の１０ルーブルを使って、衣類を買ってきて着替えさせたりして親切の限りを尽くします。皆は彼を重病人とみなしていたのです。

ラズミーヒンとゾシーモフは、殺人事件について話しだします。
最初の二人はすぐに釈放されたこと、そしてペンキ屋のミコールカが逮捕されたことを。彼が金の指輪と宝石箱を居酒屋の亭主に持っていき２ルーブルを借りたこと、そのことを亭主が警察に訴えたことを知って自殺しようとしたことなどから、犯人とみなされたのです。
「ミコールカはこう言ったそうだ。『入口のドアのそばで、小っちゃな箱を踏んづけたんだ。』」
ラズミーヒンがこう言うと、それまで終始無言だったラスコーリニコフが、「ドアの陰に？ドアの陰にあったって？」とだしぬけに濁った怯えた目で振り返ります。
ラズミーヒンは驚きます。「そう…だがどうしたんだ？どうしたんだ、君？どうして君はそれを？」ラスコーリニコフはほとんど聞き取れぬほどの小声で「なんでもないんだよ。」というとまた壁の方を向いてしまいます。
（ミコールカの金の指輪と宝石箱は、ラスコーリニコフが空き部屋で階段を昇ってくる者たちをやり過ごしているとき、落としたものでした。）

ゾシームフが犯人は大胆な手口から見て手馴れた腕っこきの悪党だと言うと、ラズミーヒンは否定します。
「腕も経験も無いおそらくあれが初めての男だよ！十分な計算と腕っこきの悪党を想像すると辻褄の合わないところばかりだ。そのやり口はどうだ？たかだか１０ルーブルか２０ルーブル程度の品物を盗んで、ポケットに押し込んだだけだ。――タンスの上の引き出しには、現金だけでも１５００ルーブルもあったんだぜ。盗みひとつできなかったんだ。殺すのがやっとってところさ！逃げたんだって計算づくじゃないよ。偶然に救われたんだよ！」

彼らが話している時に、ドーニャの婚約者ルージンがやって来ます。
彼は４５才、薄茶色の上質の夏の背広、明るい色の軽快そうなズボン、背広によく似合ったチョッキ、買いたてのシャツ、ばら色の縞模様のネクタイ、すべて仕立て下ろしで新しすぎて何もかも＜花婿＞にぴったりの服装。
彼は妙なところに迷い込んだという眼で、狭くて天井の低い＜船室＞に、鳥の巣のような頭をして、みすぼらしい汚いソファーに横たわっているラスコーリニコフと、だらしない服のラズミーヒンの無精ひげをじろじろ見回しています。
ラスコーリニコフは初めから憤怒の色を顔にみなぎらせています。
ルージンもラスコーリニコフが「知ってますよ。あなたですか？花婿は？」というと、侮辱を感じてカッとなります。
ルージンが上京してくる母と妹のために落ち着き場所を見つけておきましたと言うと、ラズミーヒンがすかさず言います。「ああ　あそこですか。ひどいところだ。はきだめだよ。汚くて、臭くて、いかがわしいところだ。もっとも安いには安いがね。」

ラズミーヒンとルージンとの間で論争が始まります。ルージンの意見はこうです。
「隣人を愛せよという言葉のとおりにしたら、つまり上着を半分にさいて、隣人にわけたらふたりとも半分裸になってしまう。まず自分ひとりを愛せよです。世の中のすべてはその基礎を個人の利害においているからです。社会に安定した個人の事業、つまり完全な上着が多くなればなるほどますます社会の基礎は強固になり、公共事業も多くなるのです。つまりもっぱら自分ひとりだけの為に儲けながら、みんなにも利益を与えるのです。結局半分の上着よりずっとましな上着をもらえるし、他人にも与えることもできるのです。」
ラズミーヒンは反撃します。
「この頃は公共事業にいろいろな事業家どもが入り込んで、自分の利益のために歪めたのですっかりだめになってしまいましたよ。」
この論争から見ると、ルージンにはエネルギッシュな現代的な新進起業家のイメージがあります。同時に貧者や不幸な人々に対する軽蔑や偏見が垣間見えます。
「あなたのお説教を聞いていると……」と、不意にラスコーリニコフは憎悪に震える声で叫びます。「あなたは許婚に向かって、貧乏人の娘を貰うと、後でおさえがきくし、恩を売りつけてしめあげることができると言ったそうですね。」
ルージンは答えます。「それは曲解です。それは噂でしょう。誰がいったい……一口で言えばお母さんでしょう。」
ラスコーリニコフはギラギラ光る射抜くような目で睨みながら叫んだ。
「もしあなたがもう一度、ひと言でも母のことを口にしたら……..あなたを階段から突き落とす！」
ルージンは蒼白になって唇をかみしめます。「病人だし、親戚だし、たいていのことは許しますが、今はもう……あなたを絶対に……」
「出て行ってくれ。」ラスコーリニコフは叫びます。

興奮したラスコーリニコフはラズミーヒンとゾシーモフにも気ちがいのように喚きます。
「ほっといてくれ。俺は病人なんかじゃない。俺にかまわんでくれ。いつになったら俺を解放してくれるのだ。もう沢山だろう。俺を苦しめるのは。俺は一人になりたいんだ！」

二人も家を出ます。ゾシーモフはこう言います。「病状が一層悪くなるかも知れん。悪いときに（ルージンが）来てくれたものだ。すっかりだめにされてしまったかもしれない。
ところで気がつかなかったかい。彼はどんなことにも無関心で、ずっと黙りこくっているが、ひとつだけ興奮することがある。例の殺人事件だ。」
ラズミーヒンも相槌をうちます。
「むろん俺も気がついていた。ひどく関心を持っているし、びくびくしている。あれは発病の日に警察で聞いて、ひどいショックを受けたせいだよ。失神したほどだ。」

ナスターシャも心配して「お茶はいらない？」と言って彼の部屋をのぞきに来ますが、かまわないでくれと言われ、台所に戻ります。
彼女がいなくなったのを見届けると、彼は机の上にあった２５ルーブルをポケットにおさめて部屋を出ます。夕刻八時近く、太陽が沈みかけていました。