お手軽文学散歩　第１２話「ドストエフスキー「罪と罰」について（１２）」

第１２話　ドストエフスキー「罪と罰」について（１２）

夜の八時、太陽は沈みかけています。といってもペテルブルグの七月は白夜です。
ラスコーリニコフは、どこへ行くのか自分でもわからず、ただ「こんなことはすっかり、今日こそ、もうひと思いに片づけたい。」と捨て鉢の決意を心に抱きながら、蒸し暑い埃っぽい悪臭のする街を彷徨います。

センナヤ広場への舗道で、流しの芸人と十五、六才の少女が感傷的なロマンスを歌っていました。
彼は５カペイカ銀貨を少女に手渡します。

ラスコーリニコフはふと考えます。
何かで読んだことがあった。ある死刑囚の話だ。
「死刑のかわりに、どこか高い絶壁の上で、二本の足で立ってるのがやっとの狭い場所で生きるようと宣告されたらどうしよう、まわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、永遠の嵐、そこで一生涯、いや千年も万年も立ち続けなければならないとしたら・・。それでも今死ぬよりはましだ。生きたい、生きたい。」とその死刑囚は叫んだそうだ。
何という真実だろう。人間なんて卑劣なものさ。その死刑囚を卑劣呼ばわりする奴もやっぱり卑劣漢だ！

彼は別の通りに出て、近代的な建物「水晶宮」のカフェーに入ります。
彼はそこで給仕にここ数日間の新聞を持ってこさせて、血走った目で次々と読み始めます。
ページをくる手ががくがくと震えていました。
不意に誰かがそばに来て、テーブルをはさんで向かい合わせに座ったのに気付き、ちらと目をあげると、犯行の翌日警察に呼び出された時の取調官、ザミョートフでした。
「おや　あなたはここにいたのですか？あなたがずっとうなされ続けているって、昨日ラズミーヒン（ラスコーリニコフの親友）から聞いたばかりですよ。僕も見舞いに伺ったんですよ。」
「知ってますよ。靴下を探してくれたそうですね。」
「新聞を読んでますね。火事の話が沢山でてますね。」とザミョートフが言うと、ラスコーリニコフはすかさず言います。
「火事の記事を読んでいるのではありませんよ。さあ　白状しなさい。僕が何を読んでいたか知りたくて、うずうずしてるんだろう？それにこんなに新聞を持ってこさせたのは、怪しいって思ってるのだろう？　白状しますよ。さあ　供述しますから、記録してください。………….金貸しの老婆殺しの事件ですよ。」
「あなたがそれを読んでたことが、僕に何の関係があるんです！それがどうしたって言うのです？」
「そら、あの老婆ですよ。警察でその話がでたとき、僕が卒倒しましたね。あの老婆ですよ。」
その刹那、斧を手にしてドアの陰にかくれていた数日前のあの瞬間のことが、記憶によみがえってきました。
彼は急にヒステリックに笑い出します。
「あなたは気違いか、そうでなければ……..」
「そうでなければ？何です。言ってください。」
「何でもないですよ。」
二人の間にはかなり長い沈黙が続きます。
やがて偽札つくりの一味の話が出ます。
ザミョートフが話すたびに、ラスコーリニコフは＜舌をペロリ＞と出したくてたまらなくなります。
ザミョートフが、犯罪者は必ず手が震えて最後までやりとおすことなどできないし、自分から墓穴を掘るものだと言い張るからです。

「早い話が老婆殺しですよ。なにしろまだ夜も浅いうちにあらゆる危険をおかして、あれだけのことをやってのけ、たった一つの奇跡を利用して逃走したというのですから、大した野郎だが、それでもやっぱり手が震えたんですよ。見ればわかりますよ。」
「わかる？それなら捕まえたまへ。」
「なあに、捕まえますよ。うまいこと殺して、危ない橋を渡るが、その後ですぐに居酒屋にはまり込む。金使いがもとで捕まるんですよ。誰もがあなたみたいに利口とは限りませんからね。あなたなら無論、居酒屋なんて行かないでしょうがね。」
ラスコーリニコフは挑戦的になります。
「どうやら、僕ならどうするか、知りたいらしいですね？僕ならこうしますね。金と品物を捕って、そこを出たら、どこにも寄らずに、どこか寂しい場所、塀があるばかりで、人影のない、そんな場所に行きますよ。多分石が放ってありますよ。どこか塀のそばには必ずそんな手頃な石があるものですよ。石を持ち上げるとくぼみがありますよ。そのくぼみに品物と金を入れて、石を元どおりに置き、一年か二年か三年そのままにしておくんですよ。まず迷宮入りでしょうね。」
「あなたは気違いだ。」
ザミョートフはこう言うとどうした訳か不意に身をひきます。
ラスコーリニコフの目はギラギラ光りだし、唇が痙攣し始めます。恐ろしい一言が、彼の唇の上を踊り始め、飛び出しそうになります。
今それを口に出したらお終いだと思った瞬間、不意にその一言が口から走り出ます。
「老婆とリザヴェータを殺したのが僕だとしたら、どうだろう？」言ってしまって、彼はハッとしました。
ザミョートフはとたんに真っ青になって、無理に笑おうとして顔を歪めます。
「そんなことありっこないじゃありませんか。」
「白状しなさい。あなたは信じたでしょう。そうでしょう。そうですね？」
「とんでもない。前にはともかく今はもう信じない！」ザミョートフがあわてて言います。
「ひっかかったね。《前にはともかく今はもう信じない》か。前には信じていたと言うわけですね。」
「そんなことありません。」ザミョートフは叫びます。
ラスコーリニコフはお茶の代金３０カペイカを置きながら、言います。
「ここに２５ルーブルありますよ。どこから手に入ったか、そしてこの新しい服も。僕が一文無しだったことはご存知ですね。でももうおしゃべりはやめましょう。じゃ、また。」

ザミョートフは一人になると、長い間考え込んでいましたが、やがて結論を下します。
「イリヤ・ペトローヴィチ（副署長）はでくの坊だ。」
副署長の命令でラスコーリニコフを尾行していたことは明らかです。ラスコーリニコフは彼を煙にまくことには成功したわけです。

ラスコーリニコフが水晶宮を出た途端、親友のラズミーヒンに出くわします。
彼を探し回っていたのです。
しかしラスコーリニコフは冷たく突き放してひとり歩き続けます。
ラズミーヒンの脳裏に、かすかに「もしや自殺でも」という懸念がよぎります。

ラスコーリニコフは橋の欄干に両肘をついて、物思いにふけります。
＜夕焼けの最後のバラ色の余影や、濃くなってゆく宵闇の中に黒く見えている家並みや、一瞬最後の陽光にうたれて、まるで炎のようにキラッと光った、左岸のどこか遠くの屋根裏部屋の小窓や、運河の黒ずんだ水面などを、ぼんやり眺めていたが、その実じっと瞳をこらして見ていたのは、暗い水面だけのようであった。そのうちに、彼の目の中に赤い環のようなものがぐるぐるまわり始めた。家並みが揺れ動き、通行人、河岸通り、馬車、周り中のすべてのものがぐるぐるまわり、おどりだした。不意に彼はギョッとした。ある奇怪な醜悪な光景によって、彼は失神から救われたのである。＞

誰かが自分の右側に並んで立ったような気がして、ちらと見ると、――――ひとりの女でした。
「身投げだ！女が身を投げたぞ！」大勢の人たちが叫びたてていました。
女はすぐに救い出されました。
ラスコーリニコフは冷たい傍観者の気持でその出来事を眺めていました。
「駄目だ、醜悪だ。………..水は………いかん。」

ここはラスコーリニコフが自殺しようとしてできなかった有名な場面です。

ある奇怪な醜悪な光景とは何でしょうか？
光景というロシア語は、ｖｉｄｅｎｉｅです。
これは前回のペテルブルグの幻影と同じ幻、幻像、幻影とも訳せます。
しかし、アクセントの違いによっては、見ること、視覚、視力という意味にもなります。
米川正夫、工藤精一郎、江川卓など著名な翻訳家が皆「光景」と訳していますから、ここでは幻ではなく、現実のことです。
光景とは身投げしようとした現実の女性の姿のことでしょう。

それでは、その光景を「奇怪で醜悪」と感じたのは、作者でしょうか？ラスコーリニコフでしょうか？
自殺はキリスト教では堅く禁じられています。
自殺は教会での祈祷は勿論、埋葬も許されない神に対する冒涜行為です。
だからこそ「奇怪で醜悪な光景」と言ったのでしょうか？

　ドストエフスキーは自殺をどう見ていたのでしょうか？
小説「カラマーゾフの兄弟」の中で、ゾシマ長老（大司祭）にこう語らせています。
「悲しむべきは地上において、みずからの身を滅ぼした者達、自殺者です。思うに、これほど不幸な者はあり得ません。語られるところでは、この者たちのことを神に祈るのは罪であり、教会も表向きは彼らを拒絶しているように見えます。しかし私は密かに心の中で、そうした者たちのことも祈ってよいのではないかと思っています。愛のためならキリストもお怒りにならぬでしょう。このような者達のことを私は一生祈ってきました。神父方ならびにわが師たちよ。そのことを私は皆様の前で告白します。そして今でも毎日祈っているのです。」

ドストエフスキーにとって、自殺は、神の救済と神の責任をめぐる大きな哲学的テーマでした。
自殺にいたる過程で、神を見出す者、神と決別する者など様々な人物が登場します。
しかし、多くの自殺者にとっては、悩み、苦しむことは浄化への道でした。
自殺は真摯さの大事な証明であり、キリストに向けた許しの懇願でありました。（注）

ラスコーリニコフは、キリストに向けた許しの懇願の心を未だ持ち合わせていません。
また、犠牲者や自殺者への同情、悲しみ、哀れみ、そして自殺にまで追い詰めた迫害者への怒りの感情さえ抱くことがありません。女の気配を奇怪で醜悪と感じると同時に、自分自身の心の中の光景、その奇怪で醜悪な光景を見て、愕然としたにちがいありません。

ラスコーリニコフは警察署のある方向に歩き出します。
心はうつろで荒涼としていました。
一切のけりをつけてしまおうと覚悟を決めて家を出た時の捨て鉢の決意は、消えうせていました。
心は石のように無感動でした。

警察署に向かいながら、彼が辿り着いたところは、あの家の前でした。
四階に上ると、ふたりの職人が壁紙の張替えをしていました。
「何用だね。あんたは誰だ？」
「部屋を借りたいと思って来た。」
「夜中に部屋を借りにくるやつがあるか？」
「血の跡はないの？老婆と妹が殺されたろう？一面血の海だったよ。」
「おまえさんは誰だね？」
「知りたかったら、警察に行こう。そこで話すよ。」
怪しんだ職人は下へ降りると、門番や通行人にこのことを訴えます。
警察へしょっぴけという声もあがりますが、酔っ払いか、気違いとみなされ相手にされませんでした。

ラスコーリニコフは十字路の真ん中に立ちどまって、「行こうか行くまいか」と考えています。
まるで最後の一言を待っているかのようでした。
しかし、犯行前にはあれほど彼に予言のように語りかけていた夢も追想も、街の人たちの声も、時計の音も、どこからも何も聞こえてきません。
＜あたりは荒涼として物音ひとつなく、彼の足下の石畳のように死んでいた。彼には、彼だけには死んでいた。＞　

（注）：グリゴーリー・チハルチシヴィリ「自殺の文学史」を参考にしました