お手軽文学散歩　第９話「ドストエフスキー「罪と罰」について（９）」

第９話　ドストエフスキー「罪と罰」について（９）

母からの手紙を読み終えたラスコーリニコフは街へ出ます。

虫食い穴としみだらけで、ぶざまにつぶれた帽子をかぶり、どんな貧乏人でも着るのが恥ずかしくなるような、ぼろぼろの夏外套を羽織っています。
７月の猛暑の中の外套姿。
ロシアの天候は変わりやすいし夜は冷えますので、ありえないことではないかもしれませんが、一寸不自然な感じもします。

ゲーテの「ファウスト」のマント姿が想起されます。
ファウストは哲学、法学、医学、神学を窮めた上でなおかつ、悪魔に来世の運命を売ってまで、「世界をその最も奥深くで統べているものが何であるか」を認識しようとした、近世における最初の自由人です。
若い恋人マルガレーテに、私生児（悪魔と取引した彼に教会での結婚は許されなかった）を生ませ、自殺に追いやってしまい、おまけにその兄を決闘で殺し、悲嘆にくれた母親を死に至らしめました。
それでも最後には天上のマルガレーテの愛の助力を得て、神によって救済されたのです。

ファウスト（右）と悪魔メフィストフェレス（左）

ラスコーリニコフはふと気付くと、四ヶ月も会っていない大学時代の友人、ラズミーヒンの下宿を目指していました。
ラスコーリニコフは、大学では勉強に専念していて他の学生達との交際は一切絶っていました。
学生達は彼の思想、知識の高さには一目おいていましたが、誰一人好意を持つ者はありませんでした。
しかし、ラズミーヒンとだけは、どういうわけか親しかったのです。
彼は並外れて陽気で、素朴でお人よしで誰にでも好かれ、非常に貧しいにもかかわらず、何か仕事を見つけては自活していました。

ラスコーリニコフは自問自答します。
「ラズミーヒンなら家庭教師の口を見つけてくれるだろう。だが家庭教師に行くには靴も買わなきゃならないし、服も直さなければ。少しは貸してくれるだろうが、それで足りるわけがない。」
「ラズミーヒンのところへ行く？　無論行くさ。だが今じゃない。あれの翌日行くことにしよう。」
途端にはっと我に返ります。
「あれの後で？とすると俺はほんとうにあれをやるのか？」
彼は自分の家へ戻りかけたが、あの学生と士官の会話を聞いてからずっと、あればかり考えていたおそろしい納戸のような部屋に戻るのはもういやだった。
神経性のふるえが熱病のように襲ってきて、炎天下にもかかわらず悪寒がします。
彼は潅木の茂みに入って草の上に横たわり、そのまま寝込んでしまいます。
その時夢を見ます。とても有名な場面です。

彼が７歳の時、お祭りの日の夕暮れ近く父と一緒に散歩していました。
小さな痩せた百姓馬が大きな荷馬車をひいていました。ミコールカ（注１）という御者が皆に「乗れ、乗れ」と大声で叫んでいます。
大勢の農夫が乗って囃し立てる中、馬は走るどころか、ぜえぜえ息を切らしてもがいています。
御者は鞭を何度もふるいますが、やがて狂気のようになって棒で打ちのめし始めます。
「まだ生きてるぞ。」「何をしているんだ。斧を食らわせろ。」馬はもう放っておいても死ぬのに、ミコールカは鉄棒を持ち出し、馬の背をなぐります。
馬は苦しそうに息をひきとります。

幼いラスコーリニコフ少年はわっと泣き出し、やせ馬に駆け寄り、血だらけの鼻面を抱きしめて接吻します。
「行こう、行こうよ。さあもうお家に帰ろうね。」父はラスコーリニコフの体を抱いて言いました。

夢からさめたラスコーリニコフは思わず叫びます。
「ああ！　いったい俺は本当に斧で頭を割り、血に足をとられながら、鍵をこわし、金を盗むつもりなのか。おお果たしてそんなことができるだろうか？」
「あれがおれには堪えられないっていうことは知っていたはずじゃないか。それならどうして今まで自分を苦しめてきたのか？あれは卑しいことだ。恥ずかしいことだ。」

「いや　おれは堪えられない。たとえこのすべての計算には一点の疑いさえないとしても、このひと月の間に決められたことがみな、白日のように明らかで、算術のように正しいとしても、だめだ！ああ、おれはやっぱり思い切れない！堪えられない。堪えられないのだ！」

彼は立ち上がって歩き始めます。
彼は急に息が軽くなったような気がします。
長い間重くのしかかっていた恐ろしい重荷を払いぬけたような気がして、心が一時に軽くなります。

「神よ！　私に進むべき道を示してください。私は呪われた….私の空想を断ち切ります。」

彼は静かなネヴァ河と真っ赤な太陽の夕映えを見やります。
まるでこのひと月の間、彼の心にかぶさっていたものが、一気にとれてしまったように、「自由！自由！いまあの諸々の魔力から、悪魔の誘惑から解放されたのだ。」と心の中で叫びます。

しかし　運命は彼を解放しませんでした。
午後９時彼はいつもと違う道を通って、センナヤ広場（貧民の街）に出ます。
ここであの話し声を耳にするのです。
「リザヴェータ、明日７時においでよ。」

ラスコーリニコフはまるで死刑の宣告を受けた人のように、自分の下宿に戻ってきます。
＜不意に全身で、もう考える自由も、意思もなくなり、一切が決定されてしまったことを直感した。＞と書かれています。

彼は意識を失ったかのように眠り続け、目覚めたのは朝１０時でした。
運命の一日の始まりです。
下宿の女主人の雇われ女中のナスターシャが持ってきたスープを３匙ほど飲んだ後、また寝てしまい、夢を見ます。

アフリカの砂漠のオアシス、隊商が休息し、駱駝が寝そべっています。
あたりには椰子が丸く茂っています。何ともいえないほど涼しい木陰に憩い、彼は水を飲んでいます。コバルト色の冷たい水、色様々な石、金を鏤めた清らかな砂。
美しい夢です。これは彼の求める楽園です。しかし、ここにも斧の響きがそっと聞こえてきます。

ドストエフスキーの今までの小説であれば、物語はここで終わるはずです。
主人公は夢想家であり、空想家でした。
現実の生活から遊離した夢想家の眼で、現実世界の秩序の崩壊について、自分自身を相手に、果てしない議論をしたり　「地下生活者の手記」、夢想の世界から生まれたもうひとりの自分が、現実の自分に成り代わって役所で出世していく姿を見て、発狂したり　「分身」、空想どおりの結婚が実現したとたんに、自分だけが幸福になっていいのだろうかと思い悩んだ末に自殺したり　「弱い心」、つまり自殺以外のいかなる行為にも踏み込めない、想念の世界だけに生きる主人公ばかりでした。
しかし　ラスコーリニコフは、新しい自分の可能性に賭けて、新しい言葉を求めて、夢想の世界から現実に向かって、踏み出そうとしています。
まさに行為者への第一歩です。

注１：　

ラスコーリニコフが落とした盗品をたまたま拾ったために、犯人と間違えられた後、すすんで身代わりとなって、罪に服そうとしたペンキ工の名前もミコールカです。ドストエフスキーはイデー（観念）を対にして描く作家です。この場合は悪のミコールカと善のミコールカ。

注２：　

この夢はレールモントフの詩　三本の棕櫚（やし）のイメージです。レールモントフは皇帝の専制に批判的な詩人。コーカサス地方（グルジア）に追放されます。

　　三本の棕櫚（東方の伝説）
　　（大橋千明、草鹿外吉共訳）レールモントフ選集Ⅱ

　　　　アラビアの砂漠のなかに
　　　　三本の傲慢な棕櫚の木が見上げんばかりに生い茂っていた。
　　　　棕櫚の木に囲まれて不毛の地から泉が顔をのぞかせ、
　　　　ぴちゃぴちゃ冷たい水をはねかえしていた、
　　　　緑の葉むらの下で、焼け付くような日差しと
　　　　飛びかう砂塵から守られて

　　　　さて多くの年月がひっそりと過ぎ去った。
　　　　ところが疲れ果てた異国の旅人はもはや
　　　　緑の天幕の下に身をこごめ、燃えるような胸を
　　　　冷たい水でいやさなかったし、
　　　　豊かな葉むらと音高い流れは
　　　　焼け付くような日差しを受けて枯れ始めた。

　　　　そこで三本の棕櫚は神に向かって不平を鳴らし始めた。
　　　　「わたしたちが生をうけたのは、ここで朽ち果てるためだったのですか？
　　　　わたしたちがこの砂漠で成長し花咲かせたのは、役たたずだったのですか？
　　　　竜巻にはゆすぶられ、炎熱には焼き焦がされ、
　　　　好意に満ちたどんな眼差しをも楽しませずに？
　　　　おお　神様、あなたの聖なる宣告は正しくない！」

　　　　かれらが黙り込むやいなや　空色のかなたに
　　　　黄金色の砂が柱となって渦を巻き、
　　　　鈴の音が雑然と鳴り響いた、
　　　　らくだが海に浮かぶ丸木舟のようにゆらゆらと歩いていった、
　　　　数珠繋ぎになり、砂に足をとられながら　　（中略）

　　　　いまキャラバンはざわめきながら棕櫚の木に近づいてくる
　　　　棕櫚の木陰に陽気な男は長々と横たわった。
　　　　水差しの水は音をたてて溢れ
　　　　棕櫚たちは八重のこうべを誇らしげに振って
　　　　思いがけない客達に歓迎の意を表し、
　　　　冷たい流れはふんだんに彼らののどをうるおす

　　　　だが夕闇が大地におりるやいなや
　　　　斧がしなやかな根っこを打ち始め、
　　　　何百年も生き長らえた神の子たちは命を絶たれて倒れた！
　　　　小さな子供たちがかれらの衣服をはぎとり、
　　　　それからその身体は切り刻まれ、
　　　　ゆっくりと燃やしつくされた。

　　　　霧が西の方に消え去った丁度その時
　　　　キャラバンは定めの旅を終えた。
　　　　不毛の地に残された悲しみの跡は
　　　　ちらほら見える白く冷たい灰だけだった。
　　　　ひからびた燃え残しは太陽に焼き尽くされ、
　　　　そのあと風で砂漠にまきちらされた。　（以下　略）　　