お手軽文学散歩　第８話「ドストエフスキー「罪と罰」について（８）」

第８話　ドストエフスキー「罪と罰」について（８）

彼が「犯罪遂行の全過程における犯罪者の心理状態に関する考察」という論文を雑誌に投稿していたことが、犯行後の予審判事との会話の中で明らかにされます。
それは、「すべての犯罪が露見するのは、細心の注意が最も必要な犯行の瞬間に、理性が病気のように曇り、意志の衰えが生まれるからである。」という主旨のものでした。

この論文の中の次の文章に、予審判事ポリフィーリーは強い関心を持ちます。

「人間は自然の法則によって二種類に分けられている。ひとつは、低級な＜凡人＞で、自分の同類を生殖することしかできない、いわば材料でしかない人間。
もうひとつは本来の人間、新しい言葉を発信する天賦の才能をもった人間＜非凡人＞。
<凡人＞は保守的で、礼儀正しく、従順で常に服従するよう運命づけられている。
しかし＜非凡人＞である古代の英雄やマホメット、ナポレオン等は、古い法律を破棄し、目的を成就するためには流血をも辞さなかった。
＜非凡人＞は血を流すことさえ自分の良心に許す権利があるのだ。」

この考えは、ニーチェの＜超人思想＞の先駆けと言われています。

＜超人思想＞とは、「神は死んだ」、「キリスト教道徳律の束縛から脱して、人間は自己の自由意志だけに基づいて生きるべきだ」と説いたものです。
神のない虚無の世界にひたすら耐え抜き、自分の自由な精神の命じるものだけに従い生きること、「我はそう欲する」という純粋な衝動のみによって、いわば「虚偽の」あるいは「遊戯としての」人生の中で新しい価値を創造し続ける人間、それが＜超人＞で、既存の宗教や道徳や社会規範だけに依拠して生きる人間は＜畜群＞として区別しています。
ドストエフスキーは同じような意味で＜人神＞という言葉を作っています。

ドストエフスキーは１８２２年生まれ、ニーチェは１８４４年生まれ。
「罪と罰」が書かれたのは１８６６年。
ニーチェが「ツアラストストラ」で超人思想を述べたのは１８８３年です。
ニーチェはドストエフスキーをフランス語で読みましたが、ドストエフスキーはニーチェの書は読んでいないようです。

ドストエフスキーは「神は死んだ」とは言いません。
「私は世紀の子です。不信と懐疑の子です。……….キリストよりも美しく、深く、同情のある、理性的な、雄雄しい、完全なものはない、ないばかりかありえないと信じています。
そればかりか、もし誰かが私に向かって、キリストは真理の外にあるといって、本当の真理はキリストの外にあると証明する者があっても、私は真理よりもキリストと共にあることを望むでしょう。」
と言っています。

ラスコーリニコフは、ポリフィーリーとこんな会話をしています。
（ポ）　「じゃあ、あなたはやっぱり新しいエルサレムを信じておいでですか？」
（ラ）　「信じています。」
（ポ）　「ほう、じゃ神を信じているんですか？」
（ラ）　「信じています。」
（ポ）　「じゃ、ラザロの復活も？」（注１）
（ラ）　「し、信じます。どうしてこんなことを聞くんです？」

私はラスコーリニコフが「これは論文の本旨ではなく、ちょっと暗示しただけだ。それに非凡人は必ず血を流さねばならないなんて言っていない。」と言ったことに注目します。
ポリフィーリーは現代でいえば検事です。俗世界の人間です。
ラスコーリニコフに「あなたはナポレオンになりたかったのではないですか？」とせまりますが、ラスコーリニコフの論文はあくまで学問です。
必ずしもかみあっていません。ラスコーリニコフがいわば神の世界の言葉で語っているのに、俗世間のいわば社会常識論としての検事の言葉に、ラスコーリニコフの行動の論拠を求めるのには違和感を覚えます。

新しいエルサレムとは、ヨハネの黙示録に出てくる言葉です。
世界が終末を迎える日、７人の神の使者がラッパの音と共に地上に降り来ると、三分の一の川の水は苦くなり、海の水は血の色に染まり、人類の三分の一が死滅します。やがて神の栄光のうちにイエス・キリストが天から下ってきて、死者は呼び戻され、最後の審判が行われます。
神を信じなかった者、人を殺した者、姦淫をした者は火と硫黄の燃える池に投げ込まれ、第二の死が与えられます。
神を信じた者だけが神の王国（新しいエルサレム）への入場が許されます。

新しいエルサレムとは、未来の社会主義の世界だという学者がいます。
しかし社会主義は本来無神論です。
私はラスコーリニコフの言葉に嘘はないと思います。
ラスコーリニコフは神の存在を信じていたのです。
しかし彼の見た神とは何だったのでしょう？
彼は神の属性を見るために神に近づきすぎたのではないか、そんな気がします。
ところで神は流血を許すのでしょうか？

　ラスコーリニコフの論理を説明する言葉として、（casuistry、詭弁、決疑論）とか（dialectics,弁証法）が使われています。
神学に弁神論というものがあるそうです。
神の世界は正義か、神はほんとうにすばらしい世界を作ったのか、それを証明する学問です。
それを証明したのがライプニッツという数学者といわれています。
数学の得意な方、ぜひ高等数学を駆使して解いてみてください。

神には矛盾があります。
全知、全能、博愛が神の実体であるとしたら、何故この世に苦悩や悲惨や犠牲があるのか。
それを取り除く方法が分からねば全知とはいえないし、方法が分かっているのにできないとすれば全能とはいえない、
そもそも神は博愛ではないのではないか？という矛盾です。

神であれ、仏であれ、完全なる存在、あるいは完全、絶対という極致の概念やイメージをもたねば人間の文明はありえなかったのは事実です。
しかし、その領域に足を踏み入れることは危険なことでもあります。
ラスコーリニコフの悲劇は「真理」を追い求め、「真理」に近づきすぎたことによるのではないでしょうか。

それにしても、ラスコーリニコフ老婆殺害の動機は何だったのでしょうか。
ラスコーリニコフの語るもっともらしい動機は真の動機ではないという学者もいます。
つまり読者ひとりひとりが判断すればよいということかもしれません。

有名な文芸評論家、小林秀雄はこう書いています。
「意識が一度疑いと否定との運動を起し始めたら、止まる所を知らない。精神という可能性の世界には、現実の邪魔物はなくなる。ということは何の動機もない行為も可能となる。」
「それはまるで、着物の端を機械の車輪に挟まれて、その中へじりじりと巻き込まれて行くのと同じであった。」（注２）

論文を書いたのは犯行の半年前、その間に彼は学業をやめ、下宿を変わり、下宿の娘と恋をしています。
では犯行を決意したのはいつでしょうか。

彼が父の形見の銀時計と妹がくれた金の指輪を持って始めて金貸しの老婆を訪れたのは、犯行の一ヶ月半前のことです。
一目見ただけで、彼は激しい嫌悪を感じます。
何がしかの金を手に入れた彼は、一軒の汚い飲食店に立ち寄り、茶を頼んだまま深い物思いに沈みます。
その時学生と若い士官の話し声が聞こえます。
今会ったばかりの老婆の噂話でした。そしてこんな会話が始まります。
「僕が君に言いたいのは、つまり、僕があの呪われた老婆を殺害して、有り金を盗んだとしてもだ、僕は断じてこれっぽっちの良心の呵責も感じないな。」と学生は激しい口調で言い放った。
士官はからからと笑った。
学生はむきになった。
「一方では愚かな無意味な何の価値もない、放っておいても明日になれば死んでしまうような老婆がいる。わかるかい。その反面には、支えてくれるものがないために、むなしく朽ちていく、若い、みずみずしい力がある。しかもそれは何千となく、いたるところにいるんだ。修道院に寄付されるはずの老婆の金があれば、何十という家庭が貧窮から、崩壊から、破滅から、堕落から、性病から救われるのだ。老婆を殺し、その金を奪うがいい。ただしその金を使って全人類と公共の福祉に奉仕する。何千という善行によってひとつのごみみたいな罪が消されると思うかね？一つの死と百の生命の交代、算術の計算をするまでもなく明らかじゃないか！老婆の死なんて、たかだかしらみか油虫の生命ぐらいなものだ。あの老婆は有害だ。あいつは他人の生命をむしばんでいる。」
士官はいう。
「むろんあの老婆は生きている価値はなかろうよ。でもそれが自然というものじゃないか。」
「自然は改善したり、方向を変えたりできるじゃないか。それがなかったら偉人なんてひとりもでなかったろうよ。」
すると士官は学生にいう。
「今君はとうとうと意見を述べたが、僕が聞きたいのは、君が自分で老婆を殺すのか、どうかだ。」
「勿論　違うさ、僕は正義のために論じたまでだ。僕に関係したことじゃないよ。」
「僕にいわせれば、君に自分でやる決意がないのなら、正義もへったくれもないよ。」
作者は、これは青年にありがちのごく当たり前の話題であり、思想であったと書いています。
この会話を聞いて、ラスコーリニコフは極度の興奮にとらわれます。どうして時もあろうに、彼自身の頭の中に………それと全く同じ考えが生まれたばかりの今、そんな話とそんな考えを聞く羽目になったのか？そしてどうして、老婆のところから自分の考えを持ち帰ってきた今、まるでおあつらえむきに老婆の噂にでくわしたのか？

この文章から類推すると「老婆殺し」の決意はこのときに芽生えたのかもしれません。

注１：　ラザロの復活

マルタ・マリア姉妹のきょうだいラザロが死にました。
イエスは「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く。」といわれました。
死後４日目にイエスがユダヤにいらしたとき、マルタはイエスを迎えに出ていって、こう言いました。
「ああ、主よ。もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死なずに済んだでしょうに。
しかし、今でも、あなたがどんなことをお願いしても神はかなえてくれることを存じています。」イエスはマルタに言われました。
「あなたの兄弟はよみがえるであろう。」それからラザロの墓に行き、「ラザロ、出てきなさい！」と叫ばれると、ラザロは息を吹き返し、手足を布でまかれ、顔も覆いで包まれたまま、墓から出てきたのでした。

ヨハネによる福音書11章1-44節

注２：　小松川女高生殺人事件

１９５８年　日本。青年（１８歳）による女子高校生（１６歳）殺人事件があった。
犯人は「罪と罰」を愛読していたと言った。
動機なき殺人、ドストエフスキー的殺人事件として注目された。　