お手軽文学散歩　第７話「ドストエフスキー「罪と罰」について（７）」

第７話　ドストエフスキー「罪と罰」について（７）

スヴィドーリガイロフとの事件が収束し、ようやく平穏な日々が訪れた頃、マルファの紹介でその親戚のルージンという４５歳の男が訪ねて来ます。
苦学してある程度の財産を持つまでになった男です。
訪ねてきた翌日にはもうドーニャに求婚し、至急返事を求めます。

母はこう書いています。
≪ドーニャは行くと決める前に一晩中眠りませんでした。しまいには、聖像の前に跪いて一心に祈っていました。そして嫁ぐ決心をしたことを私に打ち明けたのです。≫

ふたりはラスコーリニコフに告げることなく承諾します。
母は、ルージンがペテルブルグに法律事務所を開く考えがあるので、ラスコーリニコフが大学を卒業して彼の事務所で一緒に働けるかもしれないし、こちらから頼まなくとも自分のほうから学資の援助の申し出をしてくれるだろうと希望を語ります。
それに何より嬉しいのはペテルブルグで母と兄妹が暮らせることで、ドーニャはそのためだけにでも結婚したいくらいだと言っていたと語ります。
ルージンが結婚式を急いでいるので、ひょっとすると一週間ぐらいのうちにペテルブルグへ行くことになるかもしれない。
父の友人が年金を担保に７５ルーブル貸してくれると言っているので、２５ルーブルぐらいは送金できるだろう。
後は旅費に取っておく。
幸いルージンが荷物は自分の費用で送ってくれると言ってきたので三等車でいけば安くあがるだろうなどと書き記しています。
ルージンは「苦しい境遇の娘を貰いたかった、妻に借りを作りたくないからだ」と言ったと母は書きます。
≪あの人の方からも、ドーニャの方からも、別に強い愛情があったわけでもないけれど、ドーニャは良人を幸福にすることを自分の義務とするでしょうし、そうすれば良人の方でもあの娘の幸福を考えるにちがいありません。≫
≪ロージャ、お前の妹を愛してあげなさい。あの娘は我が身よりお前を愛しています。そしてお前は私達のすべてです。お前だけが幸福になってくれたら、私達も幸福です。≫

手紙を読んでいる間中、ラスコーリニコフの顔は涙で濡れていた。
だが読み終わった時は、顔は蒼白で、醜く引きつり、重苦しい、ひくひく震える薄笑いが蛇のように唇を這った。
ラスコーリニコフはこう叫びます。
「おれが生きている間はこの結婚はさせないよ。
だって、見え透いているよ。
だめだよ。
母さん、ドーニャ、おれをだませないよ。。。。。
お前が一晩中部屋の中を歩きながら何を考えていたか、聖像の前で何を祈っていたか、おれにはわかるよ。
善良な方らしい男のもとに嫁ぐんだね。
ドーネチカはらしいと結婚する。
素敵じゃないか。
≪ドーニャを愛してあげなさい≫なんて。
娘を息子の犠牲にすることで、もうひそかに良心の呵責に苦しめられているに違いないんだ。。。。。
実務家で善良らしいとのことだが、荷物を、大きなトランクを自分の負担で運んでやるのは本当に大変なことだろうさ。
花嫁と母親は百姓を雇ってむしろをかけた馬車に乗って行くんだ。
≪その先は三等車で楽しい旅をする≫千露里（約１０００ｋｍ）だぜ。
分相応ってわけだ。
でもルージンさん。
あんたの花嫁じゃないか。
母が年金を担保にして前借したことを知らなかったでは通りませんよ。。。。。。。
そうしたことが結婚後の将来のトーンになるんだから。
ところで母さん、ペテルブルグでどうやって暮らすんですか。
百二十ルーブルの年金だって借金を差し引かれるじゃないか。
手内職をしたって、年２０ルーブルがせいぜいだ。
つまりはルージン氏の高潔な気持とやらをあてにしてるんだ。」

「ところで、ドーニャはどうなんだ。
お前はまだ二十じゃないか。
妻は貧しい家から娶って良人の恩に感謝の気持を抱かせたほうがいいなんて説を一度か二度の訪問で口にするような男に辛抱できますか。
一生連れ添う相手だぞ。
あの娘は黒パンや水だけでいても自分の魂を売らない女だ。
まして楽をしたいために自分の精神の自由を渡すはずがない。。。。。
真相ははっきりしている。
自分の為には、自分を死から救う為にさえ自分を売りはしないが、他人の為になら現にこのように売るんだ。
兄の為に、母の為に売る！全てを売る！。。。。。
この芝居には他ならぬロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフが主役だ。
彼の幸福が築き上げられるのだ。
彼を大学に学ばせ、事務所で主人の片腕になり、生涯を保証してやる。
彼は金持ちになり、人に尊敬されるようになり、名誉ある人間として生涯を終えるかもしれない。
だが母親は？
この大切な長男のためならば、可愛い娘でも犠牲にしても仕方がない。
おお、なんとやさしい、でも間違った心だろう！」
「ソーニャ、世界ある限り、永遠のソーニャ、ところでドーニャよ、お前はソーニャの運命がルージンと一緒になるお前の運命にくらべて少しも卑しいものでないことを知っているのか！。。。。。
俺はお前の犠牲なんかいらないよ。
ドーニャ、いやですよ。
母さん！俺が生きている間はそんなことはさせないよ。
させるもんか！」

しかし、彼は自分に問いかけます。
「させるもんか？
じゃあ、それをさせないためにお前は一体何をしようというのか？」

研究者の中には、「こんな手紙を貰ったら誰もが強盗でもやりかねない。
ラスコーリニコフを殺人者に追い込んだのは母親だ」という人がいます。
でもそうでしょうか。
この手紙には愛情が溢れているし、母親ならこのくらいの手紙を書いても不思議ではないと私は思っています。
ドーニャもロージャも自由意志を持つ自覚的な人間です。

作者はこう書いています。
ラスコーリニコフにとって、こうした自問はどれも新しいものでも、突然のものでもなく、もう前からの古い病みつきのものだった。
遠い昔、身内に生まれた「ふさぎの虫」が成長し、積もり積もって今では奇怪な化け物のような疑問の形をとり、執拗に解決をせまりながら、彼の心と頭をへとへとに疲れさせるのである。
ただちに一刻も早く心に決めねばならぬ。
それがどんなことであろうとも。
「さもなければ、生活を完全に拒否するんだ！あるがままの運命を受け入れて、愛する一切の権利を拒否して、自己の内部の一切を押し殺してしまうのだ！」
不意に彼はぎくっとした。
昨日の考えがまた頭をかすめた。
彼はこの考えが今この瞬間「頭をかすめる」ことを予感していた。
しかし全く違う形で。
新しい、恐ろしい、全く見知らぬ形をとって現れたことを、彼は意識した。
目の前が真っ黒になった。

昨日の考えとは、金貸しの老婆を下見に行った時のこんなつぶやきのことです。
「それにしてもよくもこんな恐ろしい考えが、俺の頭に浮かんだものだ。
なんとしても汚らわしい、汚い、ああいやだ、いやだ、それなのに俺は、まる一月も…………」

彼は帽子を掴むと、部屋を出ました。（以下次号）