お手軽文学散歩　第５話「ドストエフスキー「罪と罰」について（５）」

第５話　ドストエフスキー「罪と罰」について（５）

マルメラードフは話し続けます。有名な箇所です。
「わしが初の俸給２３ルーブルをそっくり持って帰りますとな、あれはわしのことを『可愛いひと』というじゃありませんか。
一体わしのどこに好いたらしいところがあります？
わしが世間なみの夫といわれますかい？
それをあいつは頬っぺたをつねったりして、『なんてまあ可愛い人でしょう』なんて。。。。
わしの生涯を通じて天国みたいな一日でした。
なにもかも片をつけて、子供達にも着物を着せ、一粒種の娘も泥水稼業から家庭のふところへ引き戻してやろうと…」

「ところが翌日、わしは家に忍び込む盗人よろしく、持って帰った俸給の残りを引っ張り出してしまった…。
家をでてからもう５日目だ。
役所のほうはおさらば、制服は居酒屋にころがっている。……もう何もかもおしまいだ。
今日もソーニャのところに行って来ましたよ。
なけなしの３０カペイカをくれましたよ。
あんたはいま私に同情しますかね。」

「なんでおまえを憐れむのさ。」
どっと笑い声が起こった。
ののしる声さえ起こった。

「おい、亭主、お前が売ってくれたこの小瓶がおれを楽しませたと思うのかい？
悲しみさ。
悲しみを瓶の底に求めたのさ。
そしてそれを味わい、見つけたんだ。
俺達を憐れんでくれるのは、万人を憐れみ、万物を理解してくださる神様なんだよ。
裁きの日にその方が現れて、こうお聞きなさるだろう。
『意地の悪い肺病病みの継母のために、幼い他人の子供らのために、我が身を売った娘はどこじゃ？
役にも立たぬ飲んだくれの父に、そのけだものにも劣る行為をも恐れず憐れみをかけてやった娘はどこにいる？』
それからこうもおっしゃるだろう。
『ここに来るがよい。
わしはもう前に一度お前を赦してやったが…そしていまもお前の犯した多くの罪も赦されるぞ、生前おまえはたくさんの人々に愛を捧げたから…』
こうして私のソーニャは赦されるのだ…そしてひとわたり裁きがすんでから、今度はわしたちをも召し出されて『おまえ達も出てくるがよい！飲んだくれも出て来い。
意気地なしも出て来い！恥知らずも出て来い！お前達は豚どもだ！だがおまえたちも来るがよい。』
智者や賢者が『神様、どうしてこのような者どもをお迎えになりまする？』と申し立てると、神様は申されます。
『わしは迎えるぞ。それは彼らのだれ一人として自分にその資格があると思っていないからだ…』
そこでわれわれはその御手にくちづけして…涙を流し…そしてすべてを悟るんだ！…」
ちょっとの間、店内がしーんとなったが、すぐまた笑い声やののしる声が起こった。

ドストエフスキーの小説にはこのような「弱い人間」が数々登場します。
虐げられ、どん底にあえぎながら、他人から軽蔑や侮辱を受けるとかえってその苦痛の中に喜びを見出す人々です。

マルメラードフの原語はママレード、甘い男です。
「卑屈の中に地獄を見、屈辱の中に天国を味わう」のです。
「苦痛こそ快楽」。
これこそ「道化」とか「地下室の住人」とかいわれるドストエフスキー的人物の一典型です。
「わかりますか、あなた、わかりますか、このもうどこへも行き場がないということが？」といいながら、冷笑を求めてひとびとの中に分け入ってきます。
この問いはラスコーリニコフの心にも染み入ります。

ラスコーリニコフはマルメラードフを家に連れ帰ります。
カテリーナは叫びます。
「飲んじまった！すっかり飲んじまった！」
「いったい金はどこ？１２ルーブルも残っていたのに！」
「それにお前さんも恥ずかしくないかえ！お前さんも一緒に飲んだんだろう？出て行っておくれ！」
ラスコーリニコフはその惨状を見て、なけなしの１ルーブルを置いて帰りますが、自分を嘲ってつぶやきます。
「なんてばかな真似をしたもんだ。俺自身どうにもならなくなっているのに！
彼らにはソーニャというものがいるじゃないか。…ところでたいしたもんだよ。ソーニャは。
何という井戸を掘り当てたものだ！しかもぬくぬくとそれを利用している。
ちょっとばかり涙をこぼしただけで、すっかり慣れてしまったんだ。
人間て卑劣なもので、何にでも慣れてしまうものだ。」

そして不思議な言葉を吐きます。
「だが待てよ、もし俺が間違っているとしたら…もし本当に人間がおしなべて、つまり全人類が卑劣でないとしたら、ほかのことはすべて偏見ということだ、付け焼刃の恐怖にすぎぬ。とすればもういかなる障害もない。それは当然そうなるはずだ！…」（注１）

ラスコーリニコフは卑劣という言葉に常にこだわっています。
次の章でも、顔面蒼白になって街へ飛び出す際にこの言葉を思い出します。
私はこの文章を「人間は卑劣だから、偏見や因習や道徳に拘束されつつ、それでいて欺瞞に満ちた不幸な生活をおとなしく耐えている。
もし人間が卑劣な存在でなければ、いかなる偏見にも屈せず、法や道徳を侵かすことさえ恐れずに踏み越えていくだろう」と解釈します。
つまり卑劣でない人間とは「踏み越える人間、非凡人」を意味しているのだと考えます。
この時点では、ラスコーリニコフにとって、マルメラードフもソーニャも他の人間一般と同じく卑劣な存在の一員にすぎません。
しかし、かすかな疑問が生じています。
「ソーニャはもしかすると卑劣な存在ではないかもしれない。三十ルーブルで身を売り自分を殺した人間ソーニャ、銀貨三十枚でキリストを売り自殺したユダ、どちらも卑劣な人間でないとしたら、自分がやろうとしているあれ（殺人）もまた卑劣ではなく、今感じている恐れは単に臆病風でしかない。とすればもう障害はない。」
こうつぶやいて、彼は、一段と自分の新しい一歩への思いを深めていくのです。
この時の思いが、後に彼が殺人を告白する時、こんなセリフを言わせたのでしょう。
「僕は初めてお父さんがお前の話をした時から、このことを聞かせる人にお前を選んだのだ」と。

その翌日、彼はいつものように街を彷徨います。
ふらふらと歩いている１５，６才の少女に出会います。
多分馴れない男の手で着せられたらしい破れた服、明らかに暴行されたに違いありません。
朝というのに、もうそんな彼女をつけ狙っている紳士がいます。
ラスコーリニコフは、ポケットの底に残っていた２０カペイカを少女に渡し、馬車で帰るように勧めますが、彼女は「あっちに行け、恥知らず。」と叫んでよろよろと立ち去ります。
この時も彼はこうつぶやきます。（注２）
「可哀そうな娘だ。そのうち正気に戻って少々泣くだろう。母親に知られ鞭で折檻され、ことによったら家から追い出されるかもしれない。
やがて世話焼きが現れて、娘はあちらこちらと出没しだすんだ。その後は酒だ、酒場だ、その次は病院だ。勝手にしろだ、年々何パーセントかはこういうのが出ないといけないんだ。
何のために？他の者を浄化して邪魔をしないためだ。パーセンテージ。全くうまい言葉だ、科学的だ。しかし、もしドーニャ（妹）がそのパーセンテージにはいっていたら……ああ　何だっておれは２０カペイカをやってしまったのだろう。罰当たりめ！」

統計学が学問として確立してきた頃です。
当時ペテルブルグの住人１０３万人の内７１００人、０．７％が性病にかかっていたとのことです。
当時ロシアは皇帝の専制時代でした。
１８６１年の農奴解放はかえって農民に悲劇をもたらしました。
農民は実際の価値の２倍以上の金で地主から土地を買うことになり、買えない農民は荒地に移住したり、流民となって都市に流れて来ました。
国民の９０％が貧困、アル中、売春、病気の苦しみに喘いでいました。
西欧の社会主義思想がロシアにも広まりつつあり、ナロードニキ（人民主義者）が農村で活動を開始した時代でした。
しかし、ラスコーリニコフは思想家ではありません。
人道主義者や進歩主義者を、５カペイカ銀貨ほどの値打ちもない否定論者や賢人共と皮肉っています。
なぜ血を恐れるのだ。
中途半端な偽善的行為で、「何パーセントかの悲劇の必然」から完全に脱却できるだろうかと自問自答しています。
ドストエフスキー自身、ある社会主義者の会合に出席したために、政治犯として死刑を宣告された直後、恩赦を受け４年間シベリアで服役した経験があります。
民衆崇拝の気持を懐いていますが、知識人には不信の念を持っていました。
ドストエフスキーが描くのはあくまで「個の世界」「人間の内なる人間」です。
ラスコーリニコフは、「人間は卑劣な存在だ、生きるためには何でもできる存在だ」という根源的観念を持ち続けます。
卑劣な人間が充満している社会におとなしく忍従しつつ、その屈辱的な人生そのものに快楽をさえ感じている人々、涙が乾く間もなく何にでも慣れてしまう人間達、そんな凡人の世界には耐えられないのです。
しかし、なんと自分は無力なことか。蟻地獄のように地の底にこのままでは落ちていく恐怖を感じています。
逃れられるだろうか。
逃れるために果たして「あれはできるだろうか。」ラスコーリニコフは苦悩と不安の中にいます。
そんな時、彼は母親からの手紙を受け取ります。

次回は母と子の物語です。

注１：	卑劣という言葉は、ロシア語でポドレッツという。ポドは「下」という意味の語幹である。だからこの文章は「全人類が下にあるものでないとすれば、」すなわち、「全人類が上にあるものとすれば」と訳すこともできる。基準を神とすると、この文章は「人間が神より上にあるものとすれば」と読める。ラスコーリニコフは「神は存在しないかもしれない」と考えていたことになる。「カラマーゾフの兄弟」でイワン・カラマーゾフは「神が存在しなければ、すべてが許される」といったが、ラスコーリニコフも同じことを考えていたかもしれない。（＊ラスコーリニコフが「神を信じます」と答える場面が書かれています。神を否定していたとは断定できないと私は考えます。）
注２：	「公園の少女」は不幸な、辱められた女達の集合イメージである。紳士の手から救おうとしたラスコーリニコフの行為は、「人類のための苦行の生」の最初の雛形でもある。「生」と「愛」はラスコーリニコフにとって不可分であった。しかし、彼は「愛」の不能を運命付けられていくことになる。
１、２共に　ロシア文学者　江川卓　「謎解き「罪と罰」」より