お手軽文学散歩　第２話「ドストエフスキー「罪と罰」について（２）」

第２話　ドストエフスキー「罪と罰」について（２）

七月のはじめの酷暑のころのある日の夕暮れ近く、一人の青年が、小部屋を借りているＳ横町のある建物の門をふらりと出て、思い迷うらしくのろのろとＫ橋のほうへ歩き出した。

これは小説の冒頭部分です。この短い文章に小説を解くキーワードが含まれています。
都市ペテルブルグは１８世紀ピョートル大帝が海のない国ロシア（首都モスクワ）に港を建設しようと何万人という農夫を動員して湿地帯を切り開いた人工都市。
しばしば洪水で多くの犠牲者を出したために聖者のいない呪われた都市ともいわれますが、一面北のパリといわれるような美しい幻想的な近代都市でもあります。
いかにも犯罪がおこりそうではありませんか。

ひとりの青年ラスコーリニコフ。
ラスコールという言葉は、分割、分裂、分離、教会用語ではギリシャ正教の分離派という異端を意味します。
小部屋は前にいったように戸棚、船室、棺桶、屋根裏部屋という暗いイメージ。
そもそも「酷暑」「小部屋」「ふらりと」「思い迷う」「のろのろと」これすべてこの青年の心理を表します。

むせかえるような熱い思いで興奮している青年が死人のように引き籠っていた小部屋を出て、もう何ヶ月も前から老婆殺しを決意しながら、「本当にできるのだろうか？」と思い迷いながら街を彷徨します。
藪の中に倒れこみ野宿して幼い頃農夫達が寄ってたかって殺した馬の夢を見たりします。

そして「おれはどうせ断行しなんだ。」「私に道をお示し下さい。私は断念します。」と思い始めた時、いつもは通らない道（ロシア語の回り道には運命という古義があるそうです。）を通っている自分に気付きます。

その時話し声が聞こえます。
金貸しの老婆の妹（リザヴェータ）に「明日七時（ｓｅｖｅｎｔｈ）に来なさい。」という商人の声です。

これは偶然だろうか。犯行を促す何者かの声か。
「その時間は老婆ひとりだ。」彼は決行を決意し、実行します。
しかし七時にはリザヴェータは戻ってきて殺されてしまいます。
これはロシア語独特の表現でｓｅｖｅｎは七時ですがｓｅｖｅｎｔｈは六時過ぎです。
ラスコーリニコフは聞き間違えてしまったのです。心迷っていたわけです。
ここには人は悪を選ぶことができるのかという哲学的問題が提起されているように思います。
棺桶の部屋にいたことをもってすでに彼は死んでいたという学者もいます。
引き籠りの中で偶然の積み上げの中でいつの間にか悪の道に踏み込んでいく人たちがなんと多くいるでしょうか。
人間は悪人に生まれつくわけでもないにも関わらず、悪は滅びません。

世界は悪に満ちている。あるいは本来の世界は悪である。しかし、悪を選ばないことは可能である。善を選ぶことはできる。善を選び続けることこそが人間の価値だという学者もいます。

ラスコーリニコフはその後こう言います。
「あれは僕が殺したのではない。僕の中にいる悪魔が殺したのだ。」

この小説は「善を見失ったひとが善を見出すことができるか。善を選ぶためには何が必要か。」という主題を追求する物語でもあります。
犯行後すぐ帰宅した彼は眠りこけ、深夜二時に悪寒に襲われ歯をガチガチいわせながら、ズボンの裾や盗品の財布、靴下の血を処置します。

「日がな一日犬みたいに寝くさってさ。もう十時だよ。」「警察から呼び出しだよ。署へ出頭しろってさ。」
いよいよ彼の知的闘争が始まります。