お手軽文学散歩　第１９話「ドストエフスキー「罪と罰」について（１９）」

第１９話　ドストエフスキー「罪と罰」について（１９）

この場面は、ソーニャがリザヴェータと一体となって、ラスコーリニコフの目に映るという有名で重要な箇所です。ラスコーリニコフは、殺した老婆についてはいつも自分の心の中で語っています。老婆はしらみ、そして自分もしらみかと自問自答を繰り返していました。しかし、ソーニャには老婆殺しを語りません。語ったのはリザヴェータ殺しです。
殺人を告白しようとして、ラスコーリニコフは一瞬ソーニャに憎悪を覚えますが、彼女の視線に愛を見て、その憎悪は幻のように消えます。（ドストエフスキーの世界では、愛は憎悪と表裏一体です。相手の愛に不満を覚えて激しい憎しみを感じた瞬間、その憎しみは相手がもたらしたものではなく、愛を失いかけた自分が自分自身にもたらしたものにすぎなかったのだと悟るその瞬間、相手を慈しむ愛の心が不意に自分の心に訪れるのです。そういう愛こそが真実の愛なのです。）

　それにしても、ソーニャの愛を感じた瞬間が、あの瞬間、つまり斧を振り上げたあの瞬間に何故似ているのでしょうか？
斧を振り上げた瞬間は、悪魔によって導かれた瞬間でした。
殺人を告白する瞬間もまた悪魔に導かれた瞬間なのでしょうか？神に導かれた瞬間でしょうか？
その解答はここでは与えられていません。ここには、あの瞬間に似ていたとしか書かれていません。

ラスコーリニコフは、ソーニャの顔にリザヴェータを見ました。斧の前に子供のような恐怖を浮かべたリザヴェータの顔でした。ソーニャも同じ恐怖の表情をします。そして同じ恐怖がラスコーリニコフの顔にも現れます。　同じように、同じようなという言葉によって連続します。
顔には同じように子供っぽい微笑まで浮かんでいた。これは勿論、ラスコーリニコフの顔に微笑が浮かんだという意味です。私は、この文章を「ソーニャの顔に子供っぽい微笑が浮かんでいるのを見て、ラスコーリニコフもまた子供っぽく微笑した。」と訳してみたいのです。
子供っぽいとか、子供のようにとかいう言葉は、ドストエフスキーにとっては、未来の神の国の住人のような無垢な存在です。

ラスコーリニコフは、ソーニャの愛の中に、微笑を見たのだと、私は思います。ソーニャの顔に微笑が現実に現れたか否か明確ではありません。しかし、ラスコーリニコフの心がそこにソーニャの愛を発見したことは間違いありません。そしてソーニャの微笑の中に、ラスコーリニコフはリザヴェータの許しを見たのかも知れません。いずれにせよ子供のような純な心で、ソーニャとリザヴェータと向き合い、殺人を告白することができた心の安らぎが、自然にラスコーリニコフの顔に微笑となって浮かんできたのです。

殺人者の顔に浮かんだ微笑、それは勿論問題を含んでいます。有名な文芸評論家の小林秀雄は「無意味な微笑」と言ってます。
キリスト教は、笑いには否定的でした。「笑いは神の国のものである。キリストは笑い賜らなかった。この世は我々の罪を泣く場である。悪魔は笑いを利用する。笑いは愚かさのしるし、信仰の弱さのしるしである」と。
しかし、ドストエフスキーは笑いを肯定的にとらえています。
「未成年」の中で、マカール老人がこう語っています。
《赤ん坊を見たまえ。赤ん坊だけが完全に美しく笑うことが出来る。楽しそうに、にこにこ笑っている子は、天国からの光であり、人間がついには、子供のように清純になる日の訪れることを告げる、未来の啓示です。》

ソーニャは不意にいきなりラスコーリニコフの前にひざまずきます。
「今　あなたより不幸な人は世界中にいませんわ。」
「じゃ、僕を見捨てないでくれるね。ソーニャ」
「ええ、ええ、あなたについていくわ。わたしはどこまでも不幸なのでしょう。…….どうしてもっと早くあなたを知らなかったのかしら。ああ、悲しい。…….流刑地にだって行くわ！」
ラスコーリニコフの身体に不意に痙攣がはしり、傲慢な薄笑いが唇に現れます。そしてまだ懲役に行く気はないと言います。ソーニャは不意に殺人者の声を聞いて、ハッとします。あなたは飢えていたのだわ、どうして最後のものまで人にくれてやるようなあなたに人が殺せたのか？と聞くソーニャに、ラスコーリニコフは答えます。
「僕はそんなに飢えていなかった。安心してくれ。お義母さんにやった金は、盗んだ金ではなく、母から送って貰った金だ。」そして不意に何かひらめきを受けたように、急いでこう言います。
「もし僕が飢えのために人を殺したのだったなら、僕は……今幸福だっただろうと思う。
大学に納める金は、母が送ってくれたし、家庭教師に行けば一回五十カペイカぐらいにはなる。それを僕は意地になってやろうとしなかったのだ。僕は蜘蛛みたいに自分の巣の中に隠れてしまった。僕は寝転がって、考えてばかりいた。のべつ夢ばかり見ていた。……
それで僕はわかったのだ。頭脳と精神の強固な者が支配者になる。より多くのものを蔑視することができる者が、立法者であり、実行力ある者が誰よりも正しいのだ。そこで僕は悟ったのだ。権力というものは、身を屈めてそれをとる勇気のある者にのみ与えられるとね。そのために必要なことはただひとつ、勇敢に実行するということだけだ！そのとき僕の頭にひとつの考えが浮かんだ。生まれて初めてだ、しかも僕の前には誰一人一度も考えなかったものだ！……僕はそれを敢えて実行しようと思った、そして殺した。……. …….」
ソーニャは、叫びます。（ちょっと不可思議な言葉です。）
「ああ、やめて、あなたは神様のおそばを離れたのです。神様があなたを突き放して、悪魔に渡したのです。」
ラスコーリニコフも悪魔が自分をあのとき迷わせたのだ。悪魔の奴めあの時僕をそそのかしておきながら、おまえはみんなと同じしらみだ、あんなことをする資格がなかったのだと嘲笑していると言います。
そして、また不思議なことに、ソーニャに対して、「もし自分がしらみでなかったら、ここに来なかっただろう」とまで言います。（この言葉の裏には、ソーニャに告白する自分への自嘲の気持が籠められていると、私は考えます）
「ソーニャ、僕が殺したとき、僕に一番必要だったのは、金ではなかった。金よりももっと他のものだった。ソーニャ、わかってくれ！僕は同じ道を歩んだとしても、もう二度と殺人は繰り返さないだろう。僕は、他のことを知らなければならなかったんだ。僕はあの時知るべきだった、もっと早く知るべきだった。僕がみんなのようにしらみか、それとも人間か？僕は踏み越えることができるか、できないか？身を屈めて、権力を握る勇気があるか、ないか？僕は震えおののく虫けらか、それとも権利があるか？
（ここでソーニャが、殺す？殺す権利？と遮って、聞き返します。ラスコーリニコフはそれを無視して話続けます。）
あの時、婆さんのところへ行ったのは、ただ試すために行っただけなのだ！……. …………. ……果たして僕は婆さんを殺したんだろうか？僕は婆さんじゃなく、自分を殺したんだよ！あそこで一挙に自分を殺してしまったんだ、永久に！……. ……あの婆さんは悪魔が殺したんだ、僕じゃない。……. ……ソーニャ、よそうよ。僕をほっといてくれ！」

ラスコーリニコフは、絶望のあまりゆがんだ顔で尋ねます。
「言っておくれ、これから僕はどうしたらいいんだ！」
ソーニャは、今まで涙がいっぱいたまっていた目を急にきらきらと輝かせて言います。
「お立ちなさい！今すぐ外へ行って、十字路に立ち、ひざまずいて、あなたが汚した大地に接吻しなさい、それから世界中の人々に対して、四方に向かってお辞儀をして、大声で、私が殺しました！と言うのです。そしたら、神様がまたあなたに生命を授けてくれるでしょう。」

しかし　ラスコーリニコフは行かないと言います。
「一体僕はやつらに何の罪があるんだい？何のために自首に行くんだ？やつらに何を言おうってんだ？そんなことは幻でしかないよ。やつら自身からして、何百万人ものひとを滅ぼして、しかも善行のつもりでいるんじゃないか。やつらはごまかし者の卑劣漢だよ。僕は行かないよ。人を殺したが、金をとる勇気もなく、石の下に隠しましたとでも、言うのかい？」
「苦しむのよ、苦しむのよ。」ソーニャは必死の祈りを込めて、両手を差し伸べます。
「僕はまだしらみじゃなく、人間かもしれない。あまり急いで自分を責めすぎたかもしれない。もうすこし闘ってみよう。」
彼はソーニャに彼らは決め手になる決定的証拠をひとつももっていないから、仮に逮捕されてもすぐ釈放されるだろうと言います。ただ、もし投獄されたら面会に来てくれるかとも聞きます。
《嵐の後さびしい岸辺に打ち上げられたように、二人は肩をならべて、しょんぼり座っていた。彼はソーニャをじっと見つめていた。そして彼女がどんなに強く自分を愛していてくれるかを、しみじみと感じていた。すると不思議なことに、自分がこんなに愛されていることが、急に重荷になってきた。たしかに、それは不思議な恐ろしい感覚だった！ソーニャのところへ来るとき、彼は彼女に自分のすべての希望と救いがあるような気がしていた。彼は自分の苦しみのほんの一部でも取り除いてもらおうと考えていた。ところが今、彼女の心のすべてを向けられてみると、彼は不意に前とは比べ物にならないほど不幸になったことを感じたし、意識したのである。》
面会に必ず行くと答えるソーニャに、彼は「来ないほうがいい」と言います。
ソーニャは、自分の糸杉の木で作った十字架をラスコーリニコフに渡します。ソーニャは、もうひとつリザヴェータに貰った銅の十字架を持っているといいます。ソーニャのリ小さなお守りの聖像と交換したのだと言います。
「ね、一緒に苦しみを受けましょう。一緒に十字架を背負いましょう。」
ラスコーリニコフはソーニャを悲しませたくないと思って、十字架を受け取ります。

そこに慌しくレベジャートニコフが駆け込んできます。
カテリーナ・イヴァーノヴナ（ソーニャの義母）が、完全に狂って、子供達を連れて、街路で歌を歌わせ、踊りを踊らせ、物乞いをしているというのです。